武田軍団の編制
 ~三万の兵を動員~
 


 惣人数による兵力動員制
武田氏の兵力と一手衆(一部隊)の動員方法についてである。「惣人数」によれば、武田軍の兵力にはいくつかの編制方法による相違があったという。
「惣人数」に記載される騎馬数の総計9121騎、これが雑兵5人連れの場合には、4万5650人とある。これに御旗本足軽884人、惣家中の足軽5489人の小計6373人を加えると、惣人数は5万2023人となる。そして半役の際には2万6011人の動員であった。この他に4人連れの場合は4万2850人、3人連れの場合3万3736人であったという。これがどこまで事実かは不明だが、この記述にしたがえば、武田軍の兵力は最大5万2000余、最小でも3万3000余であったとされる。
だが実際には、兵力の動員方法は複雑であったと「甲陽軍鑑」には記されており、武田軍が出陣する方面によって変動があったとされている。
 方面によって違う兵力動員
三河・遠江方面軍の山県昌景(駿河国江尻在城)は、駿河・遠江・三河衆と信濃衆小笠原信嶺ら980騎を率いていたが、遠方への出陣では半役、関東出陣の際には駿河・三河衆は織田・徳川氏の押さえとして残留するのが原則であったという。
関東方面軍内藤昌秀は、西上野衆だけを配下に置いていたが、それは箕輪城に在城していたためである。その兵力は600騎であるが、西方への出陣の際には半役で、内藤昌秀直属の被官・同心衆も50騎は箕輪城に残留しなければならなかった。
美濃方面軍秋山虎繁は、東美濃岩村城に在城し、織田信長と正対していたことから、美濃出陣のみに参陣し、後は赦免されていた。また飛騨・越中方面軍馬場信春は、信濃牧野島城に在城して、飛騨・越中を監視していたが、出陣に際しては馬場の手勢120騎のうち、4,50騎を残留させ、残兵のみを率いてすべての作戦に参加させた。
しかし、馬場の相備衆は、越中・飛騨の本領を保持するため、同陣を赦免されており、駿河衆岡部正綱のみが従ったが、これも関東出陣の際には織田・徳川氏の押さえのために残留することとなっていた。そのため、馬場信春は常に少ない軍勢を率いて参陣しなければならなかったとされている。
武田信廉と一条信竜の部隊は、遠江・三河・美濃出陣の際にのみ半役が認められていたという。その理由は定かではないが、信廉の相備衆は、西上野衆と、上杉方を抑える要衝に位置する信濃衆が多いためではなかろうか。一条信竜の場合も、同様の理由であろう。
この他の部隊については、特別な注記がないため、武田軍の出陣にはほぼ全軍が従ったものと思われる。しかし、武田領国を取り巻く情勢により、出陣の命令が下る家臣や、引き連れるべき人数などには個別に指示が出たものと思われる。例えば、武田氏の小田原出陣に際して、馬場信春は上杉謙信の押さえとして、今回は特に残留を命じられていたにもかかわらず、独断で参陣した事が「甲陽軍鑑」にみえる。




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