武田軍団の編制
 ~寄親・寄子制を採用~
 


 軍団編制
武田信玄の家臣団と軍団編制については、著名な割には史料が乏しく、全体像は明らかになっていない。しかし、それを知る手がかりとして「甲陽軍鑑」品第十七(巻八)所収「武田法性院信玄公御代惣人数之事」という表題を持つ、家臣団の書き上げがある。この「惣人数」には、武田信玄に仕えた一族と家臣が、一部には重複も見られるが、その家格や職制に応じて書き上げられている。また、軍団編制も、一部記述に欠落があるものの、かなり細かいところまでわかる。
それによれば武田家臣団は、①御親類衆、②御譜代家老衆、③先方衆(他国衆)、④海賊衆(水軍)、⑤旗本・足軽大将衆、⑥諸役人・奉行衆によって構成されていた。
「甲陽軍鑑」の惣人数によれば、①から⑥の構成で、総計298人が記載されているが、この中には、甲斐の武川衆・九一色衆・津金衆・御嶽衆などのような、土豪の連合体などは含まれていない。必ずしも武田家臣の全貌を伝える物ではないのだが、それでもおおよその全体像はつかめることができる。
この「惣人数」とはいったいいつ頃の武田家臣団の様子を記したものなのか。この点については、おおよその傾向しか掴み得ない。例えば、御親類衆に松尾信是が登録されていないのは、元亀2年(1571)3月没によるのだろうが、御譜代家老衆に永禄12年(1569)の三増峠合戦で戦死した浅利信種や、三河国衆奥平・菅沼氏ら山家三方衆が登録されており、厳密な一時期の姿というわけではなく、永禄12年~元亀4年頃までの、信玄晩年の家臣団を表現したものと推察されている。
 寄親・寄子制
武田氏は、御親類衆と御譜代家老衆に、先方衆(他国衆)を相備衆として預け、その軍事指揮下に置く、いわゆる寄親・寄子制を採用していた。だが御親類衆のうち、小山田信茂・穴山信君・木曽義昌は先方衆を相備衆として配備されず、自身の家臣たちによって独自の一手衆(部隊)を構成した。また御親類衆のうち、先方衆を相備衆として指揮下に配備されていたのは、武田信廉(信玄の弟、上野国大戸浦野氏・信濃国会田海野氏など5氏)、一条信龍(信玄の異母弟、信濃国与良氏・青柳氏・大津氏の3氏)のみである。
また御譜代家老衆では、山県昌景(遠江・三河方面軍、駿河・遠江・三河衆と信濃衆より11氏)、内藤昌秀(関東方面軍、上野国のうち7氏)、馬場信春(飛騨・越中方面軍、飛騨・越中・駿河衆のうち6氏)、春日虎綱(信越方面軍、信濃川中島衆と甲斐衆のうち7氏)、土屋昌次(信濃衆のうち7氏)が他国衆を相備衆として信玄より預けられていた。また先方衆の中でも、依田信守は信濃衆丸子・武石氏を相備衆として預かった。御親類衆や譜代家老衆の中にも、地位の差があったようである。
では、これ以外の御親類衆、御譜代家老衆や先方衆は、どのように扱われていたのだろうか。これまで登場しなかった、跡部勝資・原昌胤・武田信実・祢津常安らは「組頭にても組子にてもなき衆」として一括して記載され、脇備・後備・城の番手、先手など武田軍の事情に応じて編成されるとの注記がしてあることから、いわゆる遊軍として信玄の指揮下に所属していたことがわかる。




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