3・小栗上野介の少年時代 リアリスト |
「頑童」 |
栗本鋤雲は、安積良斎の同門で、のちに小栗の盟友となるのだが、明治期に入って少年期の忠順の様子を語っている。 安積良斎の講義の席においても、小栗は沈黙して一見痴童の如く少しも尋常の者に異なるところなかりしが、執拗剛腹、俗に言ふ意地張りなしといふ。されど悪戯に於いては頭角を群童の上に聳やかり餓鬼大将の覇権を握り衆を使いまわすの力ありしとぞ。 として、仲間から「頑童」という意味でおそれられたという。 |
周囲を呆れさせる |
忠順の少年時、のちの夫人となる道子の父播州林田藩主建部内匠頭政醇の屋敷を初めて訪ねた時の印象が、明治以後に旧林田藩士から蜷川新(のち国際法学者、母ハツは小栗道子の妹)に語られ伝わっている。 年僅かに14歳のころであったか、初めて建部家の客になりて来邸せられし折あたかもその挙動全然大人のごとく、言語明晰、音吐朗々、応対堂々としててすでに巨人の風あり。いまだ14歳の少年にてありしながら、タバコをくゆらし、煙草盆を強く叩きたてつつ一問一答建部政醇藩主と応答し、人皆その高慢に驚きながら、後世にはいかなる人物となられるであろうかと噂しあった。 あるとき、若い忠順は後に外国奉行となった朝比奈甲斐守に誘われ花見に出かけた。舟を隅田川に浮かべ花を楽しもうということだったが、忠順は、 あの川の堤は、水利上の利害は如何であろう。またあの堤は、今少し高くすれば有利ではあるまいか。あるいは低くすればさらにいいのではないであろうか。あちらの水田こちらの水利は、民生のために善悪如何であろう。 といったことばかり語って、花も酒も美人も眼中になく、周囲を呆れさせたという。 |
リアリスト |
小栗忠順の性格を一口に言えば、リアリストであるといえよう。 彼は文をよくせざりき、彼は詩を作らざりき、彼は酒を嗜まざりき、彼は音色を近づけざりき、彼はじつに風流韻事の何者たるを解せざりし冷腸漢なりき。(塚越芳太郎「読史徐録」) 詩文にふけらず、酒もあまり飲まず、音楽や女性も近づけない全くの堅物「冷腸漢」となんとも味気ない男のように見えるが、書画の趣味はあった。そしてここに彼のリアリストの面目がうかがえる話がある。 ただわずかに書画を愛する癖ありといえども、彼は決して古人の手に成しものを蔵することなく、常に「その宋といい明というとも畢竟鑑定家の憶測にすぎずしてこれを目撃せしにはあらず。斯くのごとき真偽不明のものを十襲(大切にしまう)愛蔵するは不見識の至りなり」と称し、当時の名匠大家をしてその面前に揮毫せしめ、初めてこれを珍蔵する。(塚越芳太郎「読史徐録」) 自分の面前で書かせた書画以外は、誰が何と鑑定しようと骨董に興味を示さない。 人は金銀彫刻の佩刀のために巨費を投ずる時に彼は堅牢素朴の実用的佩刀をなして、無益の費を節せり。 (勢多桃陽「小栗上野介」) のちに幕府の要職につくと現場を的確に押さえ、それをどう作用させれば結果がどう表れるかを把握して手配りした政治の姿勢が、若いころからのこう言った趣味への現実的な処し方に垣間見られるのである。 |