3・小栗上野介の少年時代
期待の剛太郎 

    剛太郎誕生
小栗又一郎忠順(上野介)は文政10年(1827)6月23日、2千5百石の旗本小栗忠高・邦子の長男として、神田駿河台の小栗亭(現・YMCA一帯)に生まれ、初明は剛太郎・忠順・豊後守。同い年に西郷隆盛・山内容堂・河井継之助が生まれ、4年早くに勝海舟が生まれている。
忠順が8歳の時に生まれた妹は早世、忠順は一人っ子であり、忠順の遺児国子も一人っ子、国子も男子は明治31年生まれの又一のみ、又一も男子は忠人だけであり、「小栗上野介忠順の分家」は存在しない。
天保14年(1843)忠順が17歳の時、父忠高が御使番で仕えているときに、忠順は将軍家慶に初御目見えした。弘化4年(1847)4月武芸に励んでいることから御番入りを果たした。嘉永元年(1848)10月里丸御庭での大的上覧で皆中の成績を上げ、又嘉永2年3月下総の小金原の鹿狩りに追駆騎馬で随従。嘉永5年3月山里御庭で大的上覧で、再び皆中となり、ご褒美に預かった。嘉永6年9月西丸御書院番となる。嘉永7年1月のペリー再来日で、浜御殿での警備につく。安政2年5月21日吹上御庭での馬揃えで早乗りを御覧に入れるなど武芸に秀でていた。
    安積良斎 
話を少年時代に戻す。
天保6年(1835)、忠順は9歳で漢学者安積良斎の塾に入門した。この時良斎は45歳。忠順の生まれたころにはすでに江戸で高名な学者となって門人も400人を超えていた。
良斎は郡山の安積国造神社の宮司安藤親重の息子信で裕助ともいい、子供のころから記憶力理解力に優れ評判だった。裕助が6歳の時、加賀から来た六部(行脚僧)が母親に「お宅の息子さんは普通の子じゃない。いまに天下に名をあげる人物になるでしょう。大切に育てなさるがよい」といったという。(詳細は省く)
16歳で近くの村の縁戚へ婿入りしたが、風采がよくなく、本ばかり読んでおり、嫁に嫌われて実家に戻される。学者として身を立てようと決意し単身出奔、江戸へ出る。旅で道連れになった本所妙源寺の僧日明の紹介で佐藤一斎の学僕となり、苦しい生活の中で努力を重ねて学問に励み、学僕から門人に取り立てられ、20歳で一斎の師匠で大学頭であった林述斎の門に入ることも許された。
文章がきれいで、学識の深い良斎の名が次第に広まり、文化11年(1814)24歳で駿河台小栗忠高邸の長屋の物見所を借りて最初の塾を開くと、多くの弟子が集まるようになった。このころの小栗家の事情は、前年7月に10代目の忠清が20歳で病死し、まだ17歳の養子忠高が跡目を継いだばかり、御番入りも果たさない不安定な時期だった。
    良斎を師と仰ぐ
良斎の教育の特徴はとにかくほめることにあった。詩文がよければ詩をほめ、書がよければ書をほめ、体格が良ければ身体強健をほめる。ほめられれば人はやる気を出す。誌も書もほめようがないものはその書かれた紙をほめた。その温かい人柄と気取らない学風を慕って多くの弟子が集まった。
名声を慕って入門する弟子が増えるにつれ塾は駿河台近辺を移転し見山楼と号したが、駿河台の子弟のために小栗亭の塾を後まで残したので、忠順は良斎の高弟森田禎介、倉石典太から学んだ。
良斎は53歳で二本松藩校教授に迎えられ、嘉永3年(1850)60歳で昌平坂学問所教授に就任した。
良斎のたくさんの書物のなかでも嘉永元年の「洋外紀略」では、外交意見として外交中庸を説き、中国のアヘン戦争を批判し、国の海防を充実させるためには商船隊を編成して交易で国を富ませる必要があり、海外貿易は将来のわが国を支配するものとなるだろう、と説いている。外国船が通商貿易や開国を求めてしきりに日本近海に出没する時代とはいえ、ペリー来航5年前の時点で卓見と言える。
嘉永6年(1853)ペリー提督が久里浜に上陸して残していったフィルモア米国大統領の国書の漢語を、林大学頭・佐藤一斎らとともに日本語に翻訳している。
郡山の安積国造神社には門人帳が残り、小栗剛太郎の名も記載されている。その門弟は実に282人。小栗だけでなく栗本ジョウ雲、岩崎弥太郎、秋月悌次郎、吉田松陰、高杉晋作、清河八郎など、幕末・明治初期の内政・外交・文学などに活躍した人物の名が連なる。幕臣も討幕派もともに弟子になっているのは、良斎の考えが極端に走らず常に中庸を説いて、穏健な改革を唱えていたからだ。
良斎は万延元年(1860)11月に70歳で没した。





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