五輪書
 ~五輪書の成立事情~
 


 武蔵が本当に書いたのか?
「二天記」は、手向山の顕彰碑などと比べてはるかに記述が詳しく、創作も入っていると考えられる。しかし、こうした資料は得てしてそういうものであるから、それはやむを得ないが、「五輪書」自体、武蔵が書いたものなのかは疑問が残る。
現在に残る「五輪書」は写本で、武蔵の自筆本は残っていない。有名な写本は、熊本藩主だった細川家に残されている。その奥書によれば、正保2年(1645)5月12日、武蔵が高弟の寺尾孫之丞に与えたものを、寛文7年(1667)2月5日、寺尾孫之丞が山本源介という者に与えたことになっている。武蔵の死から20余年後のことである。
しかし、「二天記」に採録されている死去の1か月前に書かれたと推定される武蔵の書状によると、「兵法の理を書き付けて差し上げるようにと御意がありましたが、書付だけでは御合点出来ないように思い、下書だけを調えて差し上げ」たと書いている。この「下書」が「兵法三十五箇条」に相当すると考えられるが、「五輪書」のような大作は完成していない、と考えられるのである。
したがって、「五輪書」写本の奥書も、武蔵の残した覚書などをもとに、弟子の一人が武蔵の直系の弟子である事を示すためにつくり、それを武蔵に仮託したものだと考えてもよい。
 兵法が必要だと強調するために
内容的に見ても、武蔵の時代に書かれたとすると、少し疑問に思われるところがある。たとえば、「地之巻」の次のような記述である。
今の世の中に、兵法の道たしかにわきまへたるといふ武士なし。大形武士の思ふ心をはかるに、武士は只死ぬるといふ道を嗜む事と覚ゆるほどの儀也。
現代語訳すると、「今の世の中に、兵法の道を確かに究めたという武士はいない。大方の武士の考えを推測すると、せいぜい武士は只死ぬ覚悟をするものだと考えているくらいだからだ」となる。そして、この文章は、「死ぬ覚悟をする事は、武士に限らず、出家であろうと、女であろうと、百姓・町人であろうと、義理を知り、恥を思う者ならば、同じである」と続くのだが、その前提として書かれている「武士は只死ぬるといふ道を嗜む事と覚ゆるほどの儀也」という一文が気になる。武蔵の時代に「武士は死ぬことだ」というようなことは言われておらず、これは「葉隠」のような議論に対する批判だと考えられるからである。
そして、これに続く次の一文なども同様である。
又世の中に、兵法の道をならひても、実の時の役にはたつまじきとおもふ心あるべし。
武蔵の時代は、まだ戦国の気風が残っている時代であり、事実、元和偃武の約20年後に島原の乱が勃発するなど、兵法が実用としてまだ必要な時代であった。実戦の時の役に立たないだろう、などと思う武士はいないはずである。泰平の世になり、兵法がそれほど必要と感じられない時代になったからこそ、兵法が必要だと強調しなければならないのであって、「五輪書」がそういう時代に書かれたことを推測させるのである。
だが、これがたとえ武蔵の著述でなかったとしても、江戸時代前期の武士の教訓書として参考になる部分は多い。

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