五輪書 ~宮本武蔵~ |
この書物は、「地之巻」「水之巻」「火之巻」「風之巻」「空之巻」の全五章からなり、これが書物の由来でもある。 武蔵の生涯は「地之巻」に簡単に書かれているほか、養子で小倉藩家老となった宮本伊織が小倉の手向山に立てた顕彰碑があり、さらに熊本藩士豊田景英がまとめた武蔵の伝記「二天記」がある。吉川英治の小説「宮本武蔵」は、この「二天記」がもとになっている。 武蔵の父は、新免無二之助信綱と言い、十手二刀の達人だった。幼い頃から兵法の道を鍛錬し、慶長元年(1596)13歳のとき、初めて勝負をして勝った。その相手は新当流の有馬喜兵衛という兵法者で、16歳のときには、但馬国の秋山という強力な兵法者に勝った。 慶長9年(1604)21歳のとき都へ上り、天下の兵法者吉岡庄左衛門の長男清十郎と洛外の蓮台野で勝負し、真剣の清十郎に対して木刀で挑み、清十郎を気絶させた。その後、清十郎の弟伝七郎と勝負し、一撃で絶命させた。吉岡の門弟は武蔵を恨み、清十郎の子又七郎を名代に立て、洛外の一乗寺下り松で果し合いをした。相手は、数十人が弓や槍などを持って準備していたので、武蔵は不意を突いて又七郎を斬殺し、門弟を追い払った。
この年、武蔵は小倉藩細川家家老の長岡興長の屋敷に赴いた。たまたま小次郎が藩主細川忠興に招かれていたので、望んで小倉と下関の間にある向島(巌流島)で試合をする事になった。 武蔵は、興長に迷惑をかけなかったので、その日から身を隠し、試合当日、借りた小舟で向島に現れた。武蔵の到着が遅れたため、小次郎は焦れていた。武蔵の姿を見た小次郎は、刀を抜き、鞘を水中に捨て、真っ向から武蔵の眉間に斬りかかった。しかし武蔵が打った木刀の方が早く、、小次郎の顔を打った。倒れた小次郎を打とうと近づいたとき、小次郎は横なぎに刀を払い、武蔵の袷の膝上を斬った。しかし、それをかわして武蔵は、小次郎の脇腹を打ち絶命させた。 その後も武蔵は、兵法のより深い境地を開くために朝夕に鍛錬を重ね、50歳になるころ、ようやく兵法の真髄に達することができた。寛永20年(1643)10月上旬、60歳になった武蔵は、客分として滞在していた肥後の地にある岩戸山にのぼり、神仏を拝みながら著述に専念したという。こうして書き上げたのが「五輪書」だったとされる。 |