武田氏の家臣団と身分・役職
2.御一門衆と親類衆
 ~その他の親族衆~
 


 松尾武田氏
御一門衆のなかで、唯一所領の全貌を確認できるのが松尾信是(信虎五男)である。
信是は外祖父松尾武田信賢(信縄弟)の名跡を相続することで、独自の基盤を確保した。元亀2年(1571)に死去したが、男子がいなかったため、娘を甥の信俊に嫁がせて家督を継がせることとなった。しかし信俊もまだ8歳に過ぎず、その父信実(
信虎10男)が名代として遺領を管理することになる。
「名代」とは、当主となるべき人間が幼少で、軍役を勤められない場合、本人が成人するまでの間の家督代行者を指す。基本的に大名の指名ないし承認を得ることで、一族の中から定められ、知行・同心を一時的に引き継ぐのである。
松尾武田氏の名代となった信実に与えられた安堵状によれば、信是の遺領は本領松尾郷200貫文・片瀬村郷170貫文・信濃今村郷22貫550文および秋山兵部助抱え地4貫800文の合計397貫350文である。これとは別に、信是老母(信虎側室)及び信是後室に塚原郷が堪忍分として譲られており、信是の遺領はもう少し大きかったと思われる。
これを見ると、信是は本領以外の加増をほとんど受けていない。「名代」となった信実に課せられた軍役も28人に留まるもので、同じ御一門衆でも任された役割や知行高には大きな相違があったことが確認できる。
名代となった信実は、信玄・勝頼から牢人衆を預けられていた。天正3年(1575)の長篠合戦では「牢人衆」を率いて鳶ノ巣山要害を守り、討ち死にしている。これにより、松尾氏家督は正式に信俊に移るが、まだ12歳に過ぎなかった。信俊は、松尾信是の娘を正室に向かえたはずだが、早逝したようだ。伯父信廉の娘阿久利を継室に迎えている。
武田氏滅亡後、徳川家康から河窪郷を安堵され、河窪信俊を名乗る。この系統が、旗本武田氏として存続することになる。
 勝頼の弟たち
勝頼期の御一門衆はかなり若い。しかし天正3年(1575)の長篠合戦で甚大な人的損害を被った武田氏には、若いからと言って一門を遊ばせておく余裕はなかった。また、そもそも年齢の感覚が現代人とは異なる。
勝頼の次の弟仁科盛信は、弘治3年(1557)生まれだから、天正3年には19歳。もう十分に勝頼を支えることができる年齢である。盛信は、信玄の命により信濃安曇郡の国衆仁科氏を継いでいた。
仁科氏の居城森城(大町市)は、北に進めば越後、西に進めば飛騨と言う要所に位置する。何れも長篠以前は、牧之島城代馬場信春が管轄していた地域である。信春の子息信忠は病弱であったようで、それに代わる立場に盛信が就いた。つまり、北陸方面に対する軍事・外交担当である。
天正6年(1578)の御舘の乱の際には、越後西浜に進軍し、根知城(糸魚川市)を降伏させた。戦後、景勝から根知城に加えて、日本海沿岸の不動山城が武田勝頼に割譲され、盛信の管轄下に置かれている。
盛信はその後高遠城主となった。入城したのは天正9年(1581)頃と思われる。これは、同年3月の遠江高天神城(掛川市)落城により、南信濃の防衛を強化する必要性が高まった為であろう。その際、武田氏の通字「信」を与えられ、信盛と実名を改めたようだ。
信盛は天正10年(1582)3月2日、織田信忠の攻撃により高遠で戦死した。御一門衆の中で、唯一織田勢の侵攻に抵抗して討ち死にした人物である。
一方、勝頼はもうひとりの弟も起用した。天正6年(1578)仏門に入っていた弟信清を還俗させ、甲斐源氏の名門安田氏を継がせたのである。信清はこの時16歳であった。だが、武田時代の活動はよくわかっていない。武田氏滅亡後、高野山を経て、姉菊姫を頼り、上杉景勝のもとに亡命した。その後、信濃の武田旧臣を糾合するため、景勝から起用されたらしく、天正11年(1583)い文書を一通出している。




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