武田氏の家臣団と身分・役職 2.御一門衆と親類衆 ~武田逍遥軒信廉~ |
二人の兄との年齢差が大きいこともあって、信玄期には目立った活動をしていない。信濃深志城主(後の松本城)を務めたとされる程度である。また、諏方勝頼の甲府入りに伴い、高遠城主となったとされるが、確証はない。知行地は下伊那郡支配の拠点大島城付近いあったらしく、また息子のひとり球山は、下伊奈の関善寺(飯田市)の住持になっている。しかし、信廉が大島城主になったわけではなさそうで、大島城代は家臣の日向虎頭が努めている。いずれにせよ、後方の城郭であり、前線を任されたことはなかった。 信廉の存在が高まったのは、信玄死後である。勝頼の家督継承時には42歳であり、武田一門の長老格に当たるからである。これは信昌・信縄にはじまる内訌の結果、信虎世代の一門がほとんど残らなかったことによる。勝頼を支えた一門は、信玄以来の重臣に比して、1~2世代も若い。この世代差は各地の武功派の郡司・城代だけでなく、甲府の吏僚についても同様である。勝頼期の御一門筆頭は武田信豊と穴山信君がその座を競ったとみられるが、勝頼が家督を継いだ天正元年時点の年齢は、信豊が25歳、信君は27歳に過ぎない。勝頼自身も28歳で家督を継いだわけで、武田一門自体が若い顔ぶれだったのである。なお姻戚関係にある小山田信茂・木曽義昌はともに33歳、やはり若いと言わざるを得ない。 これが信玄が一門を登用しなかった、というよりも登用できなかった理由である。そのなかで「不惑」に達していた信廉に課せられた責任は大きなものがあっただろう。
子息のうち、嫡男信澄は天正4年(1576)に17歳で早逝したが、他の男子は寺僧になっている。そのうち大龍寺麟岳が、信廉に代わって勝頼政権中枢で活躍したようである。織田信長との和睦交渉を進めたほか(失敗)、武田勝頼娘の嫁ぎ先を穴山勝千代(信君子)から武田次郎(信豊子)に変更する話をまとめたのも麟岳である。 麟岳は勝頼よりも若いはずである。信廉嫡子の信澄の生年が永禄3年(1560)なのだから、仮に1歳下であっても、武田氏滅亡時には22歳にしかならない。これではいくら何でも、武田氏の外交を担うには若すぎる。信澄の庶兄なのではないか?いずれにせよ、出家した一門として尊崇を集めていたという。 武田氏滅亡に際しては、勝頼から途中で脱出し、菩提を弔ってほしいと依頼を受けるが、「師と弟子の関係である上、一門を見捨てるわけにはいかない」と断って奮戦し、討ち死にした。織田方からも「長老中に比類なき働き」と絶賛されている。
このように、信廉の家は一家揃って文化人という側面が強い。天正7年(1579)4月に自身の位牌を菩提寺逍遥院に奉納し、それ以前の3月20日には高野山引導院に生前供養を依頼した。天正9年(1581)50歳になった信廉は、娘阿久利(松尾信利室)に形見分けをしている。その書状によると、病気を患っており、眼が見えるのも今年限りではないかと述べている。床に伏せることが増えていたのだろう。それが、信廉をして弱気にさせたと思われる。 天正10年(1582)の木曽義昌謀反の報を受け、下伊那郡大島城に援軍として入城した。しかし、飯田城が自落したとの報を受け、動揺した地下人(地元の有力百姓)が外曲輪に火を掛けた。これを知った信廉は、夜陰に紛れて逃走してしまう。一連の混乱が波及した結果、大島城も一戦も交えることなく落城してしまった。 その後、甲府で織田氏の軍勢に捕えられ、処刑された。子息麟岳が最後まで勝頼に従ったこととは、あまりに対照的な末路であった。 |