武田氏の家臣団と身分・役職 2.御一門衆と親類衆 ~武田典厩家の発展と滅亡~ |
信豊の代になると、知行の加増の様子がわかってくる。元亀元年(1570)に上野国衆小幡信尚の旧領を与えられ、同3年(1572)には駿河において1000貫文を加増された。天正2年(1574)には遠江で1000貫文の加増を約束されている。信豊への知行宛行は1000貫文単位で行われており、加速度的に知行地が増えた様子が見て取れる。また朱(旗)の指物や銀の采配は信豊だけが使用できるという特権も与えられるとともに、今後は予備兵力を残さず、全軍で出陣するよう求められてもいる。
天正6年(1578)の御舘の乱では先衆を率いて信濃を北進。その途中で上杉景勝らかの和睦要請を受け、後方の勝頼に連絡を取る。そのまま北上して春日山城下に布陣している。その後の北条氏政との戦争では、関東各地を転戦した。 同時に、勝頼期になると、信豊は他大名との外交交渉を担当する取次(外交官)を幅広く担うようになる。佐竹・宇都宮・佐野と言った北関東の大名・国衆に加え、足利義昭とそれを保護する毛利輝元との同盟交渉、さらには織田信長との和睦交渉をも担った。第二次甲相同盟崩壊後の武田氏外交は、①上杉氏との甲越同盟、②佐竹氏との甲佐同盟、③足利義昭を奉じる毛利氏との甲芸同盟、④織田信長との和睦交渉(甲江和与)が基軸となる。信豊はそのうち②③④を管掌していたのだから、勝頼後期の武田氏外交の中枢に位置していたといってよい。 天正10年(1582)の「甲州崩れ」に際しては、勝頼の命を受け、東信濃から上野を確保して頽勢を挽回しようとするが、小諸城代下曾禰浄喜の謀反に遭い、自害した。享年34。武田勝頼娘と穴山信君嫡男勝千代との縁談が進んでいたのを妨害し、自身の嫡男次郎に変更させたという逸話が「甲陽軍鑑」に記される。穴山夫妻は当然ながら気分を害したと言い、これが事実ならば、信君謀反を決定づけた出来事といえるかもしれない。 |