武田氏の家臣団と身分・役職
2.御一門衆と親類衆
 ~武田信繁~
 


 武田典厩家
武田家は平安末期から続く甲斐源氏の名門であるわりに、相続く一族同士の相克、甲斐国内での内乱などもあって、御一門衆が実に脆弱だったことは前項までに記している。その上信玄の弟たちは、当初は何の地盤も有さない存在であった。信繁に信玄を支える軍事力を持たせるには、それに相応しい知行地を与えて家臣を養わせ、さらに寄子(与力・与騎)をつけてやらなくてはならない。
信繁とその嫡男信豊は官途名「左馬助」を称した。左馬助の中国風の呼び方(唐名)から「典厩」と通称された。そこで、信繁の家を武田典厩家と呼ぶ。
具体的な場所と知行規模については不明だが、武田典厩家は甲斐において本領を与えられたようである。そして信濃国境の地侍集団武川衆を寄子につけられた。寄子とは大名の家臣だが、別の重臣(寄親)の軍事力を強化するために、その指揮下に配属された人物を指す。寄親の元につけられた出向社員のようなものである。重臣の軍事力を増強するには、知行地を多く与えるのが一つの手段だが、謀反を招く恐れがある。そこで重臣を一時的に寄子として配備するという手法が、戦国大名においては広く取られた。これが「寄親寄子制」である。
 信玄の名副将
天文20年(1551)、佐久郡攻めのために「先衆(先鋒)」を率いて出陣した。武田氏では、大名出陣前の先衆を率いることができる人物はあらかじめ定められており、信繁はその有資格者であった。従来、佐久攻めは「三郎殿」という御一門衆が管轄していたが、この頃史料から姿を消す。恐らく死去したのであろう。よって信繁が佐久郡攻めを引き継いだのだろう。信繁はそのまま北信濃攻略に従事し、天文22年(1553)には逃走した村上義清の居城葛尾城を検分している。翌23年の小諸攻めに際しては、親類・被官衆への命令周知が指示されており、武田親類衆まで指揮下に置いていた様子がうかがえる。弘治元年(1555)には長尾景虎(上杉謙信)の越後帰国を伝えており、北信濃に在城していたことは間違いない。全体的に北信濃での活動が目立つが、南信濃防衛については秋山虎繁に伊那郡国衆下条氏と談合するよう指示しているから、武田領国全体を目配りする立場にあったようである。
対外的な文書の発給も少数ながら確認できる。天文13年(1544)には、追放された父信虎が高野山に登山したと聞き、宿坊の引導院に礼状を送っている。永禄4年(1561)には、鞍馬の妙法坊に本尊の像と巻数等を送られた礼状を出している。もし信繁がもう少し長生きしていれば、武田氏の外交全般を管掌する立場になった可能性は高い。この時点での御一門衆の筆頭は信繁であったから、当然であろう。信繁は立場のみならず、そのたぐいまれに見る能力と人望で、まさに武田氏の中核として働き続けたのである。
 兄の警戒を解くべく
しかし、だからこそ信繁は信玄から「警戒」される存在になり得た。信玄のすぐ下の弟という事は、信玄に代わって家督を継ぐことができる人物ということを意味する。「甲陽軍鑑」によると、武田信虎は信繁を偏愛し、信玄を疎んじたという。これが事実かは別としても、信繁としては身長に身を処す必要があったと思われる。
天文20年2月1日、信繁は武田庶流吉田氏の家督を継承した。あまりに唐突な話だが、前年12月7日に嫡子義信が元服したことと関連付ければ理解しやすい。吉田氏の家督を継承することで、信繁は武田本家から出され、庶流家の当主という立場が確定したのである。恐らくこれは、信玄の後継者はあくまで嫡子義信であり、信繁にはその資格がないことを示すための政治的パフォーマンスであったのだろう。信繁戦死後、吉田氏の家督は嫡男信豊ではなく、吉田信生という人物が相続していることからも、義信元服というピンポイントの時点で、信繁の立場を明確にしておく必要があったことを示している。
信玄にとって「御一門衆」「親類衆」という家格を整備することは、一門を序列化し、後継者から排除するという重要な意味を持ったのである。あくまで、一門は一門であり、後継者候補ではない。そういう形を作っておく必要があった。
永禄元年(1558)4月、信繁が嫡男信豊に対して「家訓九十九ヶ条」を書き送り、信玄への忠節を説いているのもこのためであろう。あくまで典厩家は武田本家を支える一門であり、本家の家督候補ではないことを教え諭しているのである。この家訓は中国の典籍から引用しつつも、訓戒を説いたものであり、信繁の高い教養を教えてくれる。
しかし武田信繁は、永禄4年(1561)9月10日の第四次川中島合戦で戦死した。享年37歳。恵林寺の快川紹喜は信繁の死について、「惜しむべくして尚惜しむ」という書状を信玄に書き送っている。




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