武田氏の家臣団と身分・役職 2.御一門衆と親類衆 ~武田信繁~ |
信繁とその嫡男信豊は官途名「左馬助」を称した。左馬助の中国風の呼び方(唐名)から「典厩」と通称された。そこで、信繁の家を武田典厩家と呼ぶ。 具体的な場所と知行規模については不明だが、武田典厩家は甲斐において本領を与えられたようである。そして信濃国境の地侍集団武川衆を寄子につけられた。寄子とは大名の家臣だが、別の重臣(寄親)の軍事力を強化するために、その指揮下に配属された人物を指す。寄親の元につけられた出向社員のようなものである。重臣の軍事力を増強するには、知行地を多く与えるのが一つの手段だが、謀反を招く恐れがある。そこで重臣を一時的に寄子として配備するという手法が、戦国大名においては広く取られた。これが「寄親寄子制」である。
対外的な文書の発給も少数ながら確認できる。天文13年(1544)には、追放された父信虎が高野山に登山したと聞き、宿坊の引導院に礼状を送っている。永禄4年(1561)には、鞍馬の妙法坊に本尊の像と巻数等を送られた礼状を出している。もし信繁がもう少し長生きしていれば、武田氏の外交全般を管掌する立場になった可能性は高い。この時点での御一門衆の筆頭は信繁であったから、当然であろう。信繁は立場のみならず、そのたぐいまれに見る能力と人望で、まさに武田氏の中核として働き続けたのである。
天文20年2月1日、信繁は武田庶流吉田氏の家督を継承した。あまりに唐突な話だが、前年12月7日に嫡子義信が元服したことと関連付ければ理解しやすい。吉田氏の家督を継承することで、信繁は武田本家から出され、庶流家の当主という立場が確定したのである。恐らくこれは、信玄の後継者はあくまで嫡子義信であり、信繁にはその資格がないことを示すための政治的パフォーマンスであったのだろう。信繁戦死後、吉田氏の家督は嫡男信豊ではなく、吉田信生という人物が相続していることからも、義信元服というピンポイントの時点で、信繁の立場を明確にしておく必要があったことを示している。 信玄にとって「御一門衆」「親類衆」という家格を整備することは、一門を序列化し、後継者から排除するという重要な意味を持ったのである。あくまで、一門は一門であり、後継者候補ではない。そういう形を作っておく必要があった。 永禄元年(1558)4月、信繁が嫡男信豊に対して「家訓九十九ヶ条」を書き送り、信玄への忠節を説いているのもこのためであろう。あくまで典厩家は武田本家を支える一門であり、本家の家督候補ではないことを教え諭しているのである。この家訓は中国の典籍から引用しつつも、訓戒を説いたものであり、信繁の高い教養を教えてくれる。 しかし武田信繁は、永禄4年(1561)9月10日の第四次川中島合戦で戦死した。享年37歳。恵林寺の快川紹喜は信繁の死について、「惜しむべくして尚惜しむ」という書状を信玄に書き送っている。 |