武田氏の家臣団と身分・役職
2.御一門衆と親類衆
 ~御一門衆と親類衆~
 


 御一門衆と親類衆
戦国時代の史料を見てみると、「御親類衆」正しくは「御一門衆」と呼んだことがわかる。顔ぶれは、信玄・勝頼の子息・兄弟と、その子息である。信玄の祖父信縄以前に分かれた庶流家は、世代が離れてしまう為「御一門衆」には含まれなかったと思われる。
娘婿については、穴山武田氏のみが「御一門衆」に含まれる。子女が嫁いでいると言っても、例えば小山田氏は「御譜代家老衆」、木曽氏は「信州先方衆」とすべきで、一門・親類扱いではない。ただし、小山田氏は御一門衆の末席に位置付けてもよいようであり、類例のない特殊な家格である。少なくとも、他の「御譜代家老衆」と同じ立場ではない。これは、木曽氏も同様かもしれない。また、板垣信安については、純粋に「御譜代家老衆」に位置付けるべきである。
一方、信玄の母方の実家大井武田氏はどうか。大井武田氏の様に、信縄の兄弟以前に分出した武田庶流家は、「親類衆」と呼んだようである。つまり「甲州武田法性院信玄公御代惣人数事」に「御親類衆」と記載されている人物の多くは「御一門衆」で、そうでない庶流家の人物が「親類衆」だということである。
「甲州武田法性院信玄公御代惣人数事」には「御譜代家老衆」として「栗原左兵衛」、「御旗本足軽大将衆」として「しもそね」の記載があるが、栗原氏・下曾禰氏は武田庶流家であるため、「親類衆」と把握したほうが正確のようだ。下曾禰浄喜に宛てた書状の書札礼は、武田一門宛のものが用いられているからである。ちなみに「甲州武田法性院信玄公御代惣人数事」には実際の「親類衆」に当たる人物の記述がほとんどない。その結果、「御親類衆」と「親類衆」を混同して「御親類衆」としてしまったのかもしれない。
 信虎前後で違う扱いに
信縄と信虎の間で区切りをつけるというのは便宜的なものであるが、当時の実情に即している。戦国大名武田氏は武田信昌の時代に成立したと考えられるが、甲斐統一を成し遂げたのは孫の信虎である。つまり、大名権力を確立させたのは信虎なのである。そして信虎の叔父油川信恵・岩出縄実は、信虎と争って敗死している。油川氏・岩手氏はその後も続くが、信虎の子弟とは当然扱いに差がある。したがって信縄の兄弟以前に分流した庶流家を「親類衆」、信虎の子弟以後の分家を「御一門衆」とわけた方がすっきりする。ただし、信虎の弟で唯一僧籍に入らなかった勝沼武田信友は、早くに北条氏の郡内進攻で討ち死にしている。子息もいなかったようで、信玄が自分の叔父をどのように処遇しようとしたかを考えることは難しい。
 内乱の歴史と一門の意味
信玄が家督を継ぐ以前の武田氏は、御家騒動が絶えなかった。明応元年(1492)から7年(1498)にかけて、武田信昌・信縄父子が争った。永正5年(1508)には、油川信恵・岩出縄実兄弟が挙兵して家督奪取を狙い、甥信虎の反撃によって滅ぼされた。そして信玄自身も、天文10年(1541)に父信虎を追放して家督を継いだ経緯がある。このように、武田氏の歴史は一族の争いの歴史でもあった。さらに言えば、信玄は永禄8年(1565)に嫡男義信のクーデター未遂「義信事件」にも見舞われることになる。
こうした経緯があるため、家督を継いだ信玄にとって、信頼できる一門は非常に少なかった。数多い戦国大名のなかでも稀に見る脆弱さで、成人していた弟は信繁だけ。また、姉婿として穴山信友を起用出来るにとどまった。穴山氏が武田氏において御一門衆として扱われたことには、一門そのものが空洞化していたという現実が背景にある。
ちなみにもうひとり、天文年間後期頃に活動を確認できる「三郎殿」という人物がおり、近い親族であったようなのだが、軍事面での働きを担った以外はよくわからず、またその活動期間は短かった。どうも早逝したようだ。
したがって、信玄を支える「御一門衆」は、穴山信友を除けば、事実上武田信繁だけであったのである。




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