後北条氏の強さと秘訣 ~早雲寺殿廿一箇条~ |
この点で興味深い指摘が、「北条五代記」にある。早雲賛美の一文である。 「仁義をもっぱらとし、一豆の食を得ても、衆と共にわけて食し、一樽の酒を請ても、ながれにそそぎて、士とひとしく飲するがごとし。夜は夜もすがらねぶりを忘れて、おこないに心を傾け、昼はひめもす、面をやわらげて、まじはりをむつまじくす。すすみて万人を撫でん事をはかり、退きては一身の失あらん事を恥ず。たのしみは諸侯の後にたのしび、憂いは万人の先に憂う。いまだしゆゆの間も、心をほしいままにせず、常に慈悲の政道を執り行い、天道の加護をあふぎ、民をなで道ただしくまします故、神明のまもり天道に叶い、敵を滅ぼし国従うこと、あたかも吹風の草木をなびかすがごとく、万民を憐み給う事、ふる雨の国土を潤すに同じ。」 著者・三浦浄心が北条氏の遺臣であり、その北条氏の始祖早雲に対する最大級の賛辞ということになるが、単なる「ごますり」ではなかったことは確かである。民政に心を砕いていたことは事実だったと思う。
「伊豆之相(早)雲ははりをも蔵に積むべきほどの畜仕候つる。武者辺につかふ事は、玉を砕つべう見へたる仁に候」とは、今川氏親の連歌師として有名な宗長が、越前の朝倉宗滴に語った言葉であるが、このことは、早雲の子氏綱が、その子氏康に与えた五か条の「書置き」からも確かめることができる。 氏綱は、父早雲が言った言葉を、自分の子にさらに伝えようとした、第四条に以下のように書いてある。 「亡父入道殿(早雲)ハ、少身より天性の福人と、世間に申候。さこそ天道の冥加にてこれあるべく候得ども、第一ハ倹約を守り、華麗を好み給ハざる故也。惣別侍ハ古風なるをよしとす。当世風を好は、多分ハ是軽薄者也と、常々申させ給ね。」 このように早雲、氏綱に流れるのは、質素倹約であった。この精神こそが、領国支配を安定化し、さらに飛躍させていった原動力だったと考えられる。そしてその精神は「早雲寺殿廿一箇条」にあふれているのである。
一、刀・衣装・人の如く結構に有べしと思ふべからず。見苦しくなくばと心得て、無き者をかり求め、無力重なりなば、他人のあざけりなるべし。 刀や衣装などは、放っておくと派手になっていく傾向があり、早雲はそうした華美を戒めている。 ところで、「早雲寺殿十一箇条」をみると、早雲がいかに誠実に生きたかをうかがわせる条文がいくつかある。まず第五条である。 一、拝みをする事、身の行ひ也。只心を直にやはらかに持ち、正直・憲法にして、上たるをば敬ひ、下たるをば憐み、有るをば有るとし、無きをば無きとし、有のままなる心持、仏意・冥慮にもかなふと見えたり。たとひ折らずとも、比心持あらば、神明の加護有之べし。折るとも心曲がらば、天道に放され申さんと慎むべし」 「正直・憲法」な心掛けが必要だと説いているが、正直早雲の戦略では、相手の油断を衝いた奇襲や、小田原城乗っ取りのような謀略が中心で、お世辞にも「正直」とは言えないが、軍事行動においては早雲の頭の中において、武将の謀略は是認されていたようである。だが、平時における政治においては「正直」であるべきだということであろう。第十四条においても「上下万民に対し、一言半句にても虚言を申すべからず」と言っていることと共通している。 領民に対し、誠実な心持で接することが大切なことを説いており、これは二十一箇条に共通して流れる早雲の思想でもあった。 このような誠実さで領内支配に臨んでいたことが、領内民衆の支持を得、富国強兵につながっていったものと思われる。 これだけではなく、家臣たちに対する軍事教練も奨励しており、北条軍の強さの秘密の一つであった。第十六条に「奉公の隙には、馬を乗習ふべし。下地を達者に乗習ひて、用の手綱以下は稽古すべき也」とあり、最後の二十一か条目にも、「文武弓馬の道は常なり。記すには及ばず。文を左にし、武を右にするは古の法、兼て備へずんば有べからず。」と、文部両道の奨励を行っており、普段の生活を律していたことこそが北条軍の強さの秘訣だったということがわかる。 |