ドキュメント元寇 ~南宋従属のために~ |
日本事情に詳しい高麗出身のある側近は、「日本は征服の対象としてよりは通交の相手国として交渉すべきであり、そのためには高麗を仲介にして日本の案内をさせたほうが良策である」とフビライに進言した。日本を従属させれば南宋は自然に衰え、蒙古の支配に入るだろうという論理である。日本問題は南宋問題でもあったのだ。 そおため、高麗は交渉の橋渡しを命じられ奔走させられる。日本との交渉の結果は、日本の拒否反応が強く、フビライの意図するところとは逆の方向へと展開した。これで高麗は、元の侵略で20余万人の「骸骨野を覆う」苦難から蘇生することなく、さらに遠征で多大な人的・物的負担と犠牲を強いられる過酷な運命を歩まねばならなくなった。
フビライは日本に対して、1266年から1272年まで6回にわたって日本招諭の使者・書状を送っている。最初の動きは文永3年(1266)のこと。兵部侍郎黒的と礼部侍郎殷弘に高麗使の先導で、日本に国書を送ることを命じた。 翌年の正月、巨済島(コジェド)に渡った黒的らは初めて対馬を望み、「大洋万里、風濤天を蹴る」風波を目の当たりにし、かつ高麗宰相・李蔵用の、海上は危険であり渡海は困難であるとの口実に乗せられ、引き返してしまった。日本渡航は失敗した。 フビライは高麗の意図を見破り、海上風波のせいにするなと叱責した。8月再度の督促、今度は高麗の単独責任で交渉を成立させよという厳命で、高麗は9月に使者を日本に送った。高麗国王から日本に宛てた国書は、蒙古との板挟みの苦しい思いを文面に溢れさせ、どんな形でもよいので、日本が国書へ応答して使者をフビライのもとへ送ってほしいと述べている。 次いで、文永5年(1268)正月、高麗使らは再び渡海、大宰府に到着し、蒙古・高麗の国書を太宰府少弐武藤資能に渡した。九州の管理責任者でもある武藤は、早速京都六波羅探題に急報し、六波羅は即刻鎌倉幕府へ伝達した。
「大蒙古国は天下を領有し、遠方の国も威と徳義になびき、高麗を含め悉くなついている。日本はフビライ帝になってからまだ通交がないのは、我国の威勢を知らないものと見える。特に使者を送って通好を促す次第、親睦を結ぼうではないか。聖人は四海を持って家と為す。通交しないのは、一家といえないのではないか」 と、理詰めで諭す一方、「兵を用いるに至る、それたれぞ好む所ならん、王それを図れ」と結んでおり、軍事的手段はとりたくないものだ、よくよく思案せよと、不気味な余韻で結んでいる。日本を臣下としてみなさず、仲間として扱う態度であるという解釈もあるが、とにかくも日本はそのような国際外交の真意を読み取れず無知であった。 |