幕府を作り上げた人々 ~知恵伊豆と下馬将軍~ |
阿部忠秋は信綱より6年若く、慶長7年(1602)3月に徒頭阿部忠吉の次男として生まれた。9歳で家光の小姓となっている。信綱と忠秋は家光の幼少時から近侍し、彼らも幼友達として成長していった。信綱は相当な悪戯者だったが、忠秋は信綱のような逸話がほとんどない。しかし、ともによく奉公したことから、のちに家光は信綱と忠秋には絶大な信頼を寄せていた。また、この二人が家光の人間形成に与えた影響は極めて大きかった。忠秋ははじめ御膳番から小姓組番となり、寛永3年には1万石を領した。さらに小姓組番頭を経て、寛永10年には幕閣の新しい陣容が整うと、六人衆の一人に加えられることになった。寛永12年(1635)に下野国壬生の2万5千石の城主、次いで寛永16年に武蔵国忍5万石の城主となっている。忠秋は将軍家光と家綱の時代、33年にわたって老中を勤めた。幕閣においては地味な存在ではあったが、幕府政治の基礎を固めた有能な人物であった。寛永3年(1663)に武蔵・相模・上野国のうちにおいて8万石を所領としたが、病によって老中を退き、延宝3年(1675)5月3日、74歳で没した。
忠清は、雅樂頭酒井家の系譜を引き、祖父忠世は秀忠・家光次代に功があった。父忠行は38歳で病没したので、忠清は14歳で家督を相続した。上野国厩橋(前橋)城主からやがて幕政にかかわるのは家綱の時代である。忠清は承応2年(1653)に老中に任ぜられたが、松平信綱・阿部忠秋らの前代の遺老を越えて上座につき、月番による日常政務は免除されたのである。寛文6年(1666)には大老となり、領地も延宝8年(1680)には15万石となった。酒井家は譜代名門である。そのため歴代が元老の地位についていたが、とりわけ忠清の時代は門閥の権威のもっとも増大した時代である。しかも家綱は病弱の上、前代からの遺老も老衰または病気によって死亡し、次々に幕閣から姿を消していった。 そのため忠清は自然に専横を振る舞うようになったが、特に家光の後見であった会津藩主保科正之が隠退してからは、いよいよその傾向は顕著になった。 忠清の邸宅は江戸城の大手門の下馬札の前にあったので「下馬将軍」といわれたほどであった。忠清が権勢をほしいままにしたため、幕府政治は腐敗したと言われている。こうした情勢を憂えてか、備前岡山藩主池田光政や阿部忠秋は、しばしば忠清の権力の乱用や高慢な態度を戒めたといわれる。しかし、その反面では忠清は領主的支配が全般的に弱まって、農民の抵抗が次第に強まっていく中で、幕閣の中枢にあって倹約令の強化、大名や諸役人への監察を強めていき、権力の集中化を積極的に進めていった。そして、大老となっても家綱を補佐して、文治政治を推進したと言われている。
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