幕府を作り上げた人々
 ~知恵伊豆と下馬将軍~
 


 松平信綱と阿部忠秋
三代将軍家光の時代、幕閣の主要人物に松平伊豆守信綱と安倍豊後守忠秋がいた。信綱は、慶長元年(1596)に徳川氏の地方役人大河内久綱の子として生まれた。のち松平正綱の養子となり、はじめ家光の小姓として近侍し、小姓組番頭を経て、寛永4年(1627)1万石で大名となった。そして寛永10年には、若年寄の濫觴ともいうべき六人衆となり、次いで老中に任じられている。武蔵国忍城主となり3万石を領した。同16年(1639)天草・島原の乱の鎮圧の功により、武蔵国川越城主6万石に転じ、次いで7万5千石に増加したが、慶安4年に家光が没すると、阿部忠秋とともに幕閣の頂点にたち、幼い将軍の家綱を補佐したのである。信綱は「知恵伊豆」と言われたように才気活発、大いに機知にも富んでいた。新参譜代として幕政の中心となり、幕藩体制の確立に尽くしたが、寛永政治において、参勤交代の制度化、鎖国の完成、寛永の大飢饉と幕政改革に取り組んだのである。
阿部忠秋は信綱より6年若く、慶長7年(1602)3月に徒頭阿部忠吉の次男として生まれた。9歳で家光の小姓となっている。信綱と忠秋は家光の幼少時から近侍し、彼らも幼友達として成長していった。信綱は相当な悪戯者だったが、忠秋は信綱のような逸話がほとんどない。しかし、ともによく奉公したことから、のちに家光は信綱と忠秋には絶大な信頼を寄せていた。また、この二人が家光の人間形成に与えた影響は極めて大きかった。忠秋ははじめ御膳番から小姓組番となり、寛永3年には1万石を領した。さらに小姓組番頭を経て、寛永10年には幕閣の新しい陣容が整うと、六人衆の一人に加えられることになった。寛永12年(1635)に下野国壬生の2万5千石の城主、次いで寛永16年に武蔵国忍5万石の城主となっている。忠秋は将軍家光と家綱の時代、33年にわたって老中を勤めた。幕閣においては地味な存在ではあったが、幕府政治の基礎を固めた有能な人物であった。寛永3年(1663)に武蔵・相模・上野国のうちにおいて8万石を所領としたが、病によって老中を退き、延宝3年(1675)5月3日、74歳で没した。
 下馬将軍・酒井忠清
四代将軍家綱の時代を、一般に幕藩体制の確立期と呼んでいる。この時代に老中に就任し、まさに幕府創業期の譜代門閥を代表する最後の大名と言われたのが酒井雅樂頭忠清である。
忠清は、雅樂頭酒井家の系譜を引き、祖父忠世は秀忠・家光次代に功があった。父忠行は38歳で病没したので、忠清は14歳で家督を相続した。上野国厩橋(前橋)城主からやがて幕政にかかわるのは家綱の時代である。忠清は承応2年(1653)に老中に任ぜられたが、松平信綱・阿部忠秋らの前代の遺老を越えて上座につき、月番による日常政務は免除されたのである。寛文6年(1666)には大老となり、領地も延宝8年(1680)には15万石となった。酒井家は譜代名門である。そのため歴代が元老の地位についていたが、とりわけ忠清の時代は門閥の権威のもっとも増大した時代である。しかも家綱は病弱の上、前代からの遺老も老衰または病気によって死亡し、次々に幕閣から姿を消していった。
そのため忠清は自然に専横を振る舞うようになったが、特に家光の後見であった会津藩主保科正之が隠退してからは、いよいよその傾向は顕著になった。
忠清の邸宅は江戸城の大手門の下馬札の前にあったので「下馬将軍」といわれたほどであった。忠清が権勢をほしいままにしたため、幕府政治は腐敗したと言われている。こうした情勢を憂えてか、備前岡山藩主池田光政や阿部忠秋は、しばしば忠清の権力の乱用や高慢な態度を戒めたといわれる。しかし、その反面では忠清は領主的支配が全般的に弱まって、農民の抵抗が次第に強まっていく中で、幕閣の中枢にあって倹約令の強化、大名や諸役人への監察を強めていき、権力の集中化を積極的に進めていった。そして、大老となっても家綱を補佐して、文治政治を推進したと言われている。

 門閥譜代の衰退
この忠清にまつわる政治事件としては、仙台の伊達騒動では伊達藩取り潰しを図ったという説もあるが、現在ではこれを否定する見解が有力である。家綱の死去した際、有栖川宮幸親王を擁立し、宮将軍を迎えようと画策して、そのため綱吉が将軍となると罷免されたという説もあり、それを巡っての様々な論議がある。しかし、忠清が延宝8年(1680)12月に大老を罷免され、五代将軍綱吉の治世の開始とともに政界から退いたのは、別の理由からであろう。それは幕政の刷新に意欲を燃やす綱吉にとって、まさに譜代門閥を代表する酒井忠清は排除していく必要があったからである。結局、綱吉と忠清は、個人的な対立というよりも、政治的立場で相反するものがあったのである。つまり忠清は家綱時代から大老と老中の合議制による幕府運営をはかろうとした。これに対して綱吉は、側用人政治を導入しながら将軍専制体制を打ち立てていこうとしたのである。このことは、すでに門閥譜代が新しい時代に適応することが出来なくなったことを示していたと言ってよい。




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