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 「外交敗戦」孤立への道
 ~松岡の楽観論~
 


 列強に寄せる期待感
松岡が強気で楽観論を張るには理由があった。少なくともこの時点ではまだ日本は国際社会から完全に孤立したわけではなかった。その理由は、列強各国も日本への対応に揺れていたからである。
日本と中国権益の獲得を競っていたイギリスは、失業人口の増大という国内問題に悩まされていた。世界大恐慌(1929年)以来増え続けた失業者は31年半ばには270万人に達し、政治の関心は内側に向けられていた。フランスの関心は、ベルサイユ体制下で封じ込まれた隣国ドイツが再拡大へ転じることへの懸念と軍縮問題。ドイツは莫大な戦後賠償と債務、それに伴う財政危機に苦しんでいた。
つまり、列強がそれぞれ内向きの問題に普請していたというのがこの頃の国際状況であった。また、当時の日本が国際連盟内で占めていた位置も列強の動静に影響を及ぼしたかもしれない。常任理事国として中核的役割を担っていた日本は、西欧社会からすれば極東の「アウトサイダー」であるがゆえに、ヨーロッパの紛争解決では公平な調停者としての役割を期待されていた。大戦の傷が癒えぬこの時期、列強の関心事がヨーロッパの地図の上にある以上、自国の権益擁護に寄与するかもしれないこの「部外者」と対立することは必ずしも好ましいことではなかった。
 世界大恐慌の影響
当時の列強の考えを窺うことのできる興味深い資料がある。イギリス外交の舵取り役にして国際政治の王立者だった、イギリスの外相ジョン・サイモン。サイモンが満州事変後の閣議で閣僚を説得した際のメモ(サイモン文書)がイギリス国立公文書館の極東外交文書に残されている。文書の示すところによると、その外交姿勢は以下のようなものだった。
「事態の収拾に失敗すれば、我々イギリスが一番失うものが大きい。我々の全極東政策は、日本の善意に依存している。」
「我々の政策は対日宥和。制裁などは認めない。」
「中国は自分の本分を尽くせ。他人(連盟や英米)ばかりあてにするな」
イギリス自身、中国など、世界各地に植民地や権益をもっていた。日本の行為の全否定は自らに跳ね返ってくる。他の列強にとってもまた同様であった。世界はまさに転換点に立っていた。
第一次大戦という惨禍を教訓に誕生した国際連盟に象徴されるように、当時の世界は国際問題の平和的解決を求めて、新しい方法を模索し始めていた。力がモノを言う「古い外交」と国際協調に基づく脱帝国主義的な「新しい外交」、いうなれば、利権と同義の狭間でその折り合いを探っていたというのが列強各国の実情であった。
ところが、世界大恐慌がこの新しい外交の潮流をより複雑にする。経済的打撃を恐れる列強各国は、次々とブロック経済を形成し、自国の検疫に固執する姿勢へと傾斜していった。これは古い世界秩序への一時的後退であったが、それを最も極端な形として表出させたのは日本による満州事変であった。




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