「外交敗戦」孤立への道 ~満州事変~ |
この満州事変が契機となり、日中戦争、そして太平洋戦争へと、日本が戦争に突き進んでいった。 世界を揺るがした満州事変に対し、各国が示した反応はどのようなものだったのだろうか。また、事態の収拾を模索した当時の外交当事者たちにどのような目算と駆け引きがあったのだろうか。 事変直後から活発に展開された外交活動の中で、最初に着目されるのは中華民国国民政府(南京政府)による国際連盟提訴である。日本側は幣原喜重郎外相のもと日中間での直接交渉での問題解決を主張。中国側はいったんは交渉のテーブルにつく動きを見せたものの、最終的には蒋介石らの「公理に訴える」方針に傾き、1932年9月21日、連盟規約第11条に基づく理事会の開催を要請。連盟提訴に踏み切った。この結果、満州問題は国際連盟のもとで解決すべき事案という構図が出来上がり、以後事態の収拾は連盟を中心に図られることになる。
英仏独伊日五か国の常任理事国に九ヶ国の非常任理事国を加えた連盟理事会は9月30日、日本に対し軍の撤兵要請を採択する。これを受けて若槻礼次郎を首班とする内閣は、関東軍撤退の方針を打ち出したが、それは日中直接交渉による大綱協定の取り決めを先決事項とする、という前提のつくものであった。したがって、即時撤兵は履行されず問題は長期化、交渉の部隊は理事会から連盟総会へと移っていく。 翌1932年にスイス・ジュネーブで開かれた国際連盟総会は、日本の立ち位置とその後の方向性を決定づけるターニングポイントとしてとりわけ重要な意味を持つものとなった。結果的に、国際法違反との非難が巻き起こる中、翌年2月松岡洋右全権の日本代表団は議場を退席し、国際連盟から脱退する。それは戦争へと向かういくつもの分岐路で、日本が犯した過ちの原型というべき選択だった。 あたかも「名誉の孤立」であるかのように称された脱退劇だったが、しかしそれは、松岡ら代表団が会議に臨んで描いた帰結とは真逆のものであった。当初の既定方針は、あくまで「手を尽くして連盟に残る」というものだったからである。
「これは御上(天皇)からと言ってもいいくらいに、満州問題の上に支障なき限り、連盟内に留まってくれと言われてきている。少々連盟で悪口を言われても、話をまとめてかえらなきゃならないんだ」 何故、外交的大誤算が生じてしまったのか。会議の動静をつぶさに辿っていくと、当時の日本を蝕んでいるある「病巣」が浮かび上がってくる。 12月6日、総会で満州問題の審議が始まると、各国からの非難が日本に集中した。「満州国」は日本の明白な国際条約違反である(アイルランド代表・レスター)、大国だからと言って、力を好きに行使してよいはずがない(スイス代表・モッタ)、この侵略を黙認すれば連盟の威信は地に墜ちる(スペイン代表・マダリアガ)といった演説が行われ、加盟国の多くが連盟理念の遵守を日本に迫った。しかし、それらはあくまでも原則論、問題解決の実行力を持たない批判でしかなかった。 対して松岡全権は、日本のとった軍事行動の正統性を主張。各国からの非難は織り込み済みとばかりに強硬な対立姿勢を崩さなかった。実際、総会は日本の読み通りに始まっていた。全権団は会議の行方を楽観視していたのである。 「経済危機脱出に焦る各国がエゴをむき出す中、連盟の理想は無力、所詮絵に描いた餅にすぎないのではないか。大国も強圧的には動かないだろう」 松岡の強気の背景には、露骨な日本批判を控えて態度を明確にしない、イギリス等の列強に寄せる期待感があった。 |