対外政策の変遷
 ~ペリー来航の予告情報~
 


 予告情報を譜代大名に回覧
ペリー来航が予想もしない青天の霹靂であったなら、突然に姿を見せた黒船艦隊に、ただ慌てふためくばかりであったに違いない。しかし幕府は事前に情報を得ていた。
アヘン戦争から10年後、オランダ商館長にクルチウスが着任し、1852年4月7日付けで別段風説書を長崎奉行所に提出した。それが「当子年阿蘭陀別段風説書」である。1845年に老中首座(現在の総理大臣的存在)となった阿部正弘は、この秘密文書を江戸城の溜間席に諸侯に回達した。1852年7月ごろとされる。溜間とは、将軍の政務室にあたる中奥の黒書院にあり、主な譜代大名(井伊家等)が詰める席である。
この別段風説書は、「北アメリカ供和政治の政府が日本国へ使節を送り、日本国との通商を望んでいる」とあり、その目的として①日本人漂流民の送還、②交易のための日本の二、三の港の開港、③石炭貯蔵場の確保、の三点を挙げている。
そのうえで、「蒸気仕掛けの軍船シュスクガンナ号をはじめ、サラトガ号など帆船四隻が唐国に集結しており、さらにアメリカ海軍は数隻の蒸気船を増派する予定」で、「シスシスシッピー、この船に船将ペルレイまかりあり」と述べている。
老中回龍は、肝心な来航時期について、艦隊が4月下旬前に出帆するのは難しく、少し延期となるようである、とある。最後の結びとして安倍は、「この事は秘密の心得として申し上げることであり…厚くお含みのうえ、警備を厳重にされたい」と付言している。
島津斉彬の反応
このニュースは大きな衝撃を与えた。艦隊の規模、どれをとっても体制を揺るがしかねない。来航時期については明示されていないが、当時の常識から推測する限り、「来年の春」の可能性が高い。オランダ船は季節風の関係から夏に入港、秋までには出港と決められていた。この夏にアメリカ艦隊の来航はなかったからである。
半年ほど後の暮れ、薩摩藩の島津斉彬が家老の久賓に出した手紙に、阿部老中から聞いた話として「アメリカの事、22日、阿部のところへ参った時、色々のことを聞いた。夕刻にまた詳しく話を聞く予定である。アメリカの事はオランダ商館長より聞いており、老中はよほど心配の様子で、いまだ評議定まらない模様、近々また聞くことになろう」とある。
阿部から島津へは、この時点でペリー来航の予告情報が口頭で伝えられたとみられる。1853年1月7日付の阿部の書面は、薩摩が琉球を支配しており外国情報も多く入手しているはずなので、琉球の動静を知りたいと述べ、「唐国之様子」については同封(阿蘭陀風説書)のとおりとある。これには嘉永3年(1850)の「阿蘭陀風説秘書」も同封されていた。
島津はこの情報をもとに、家老への同じ書簡の添え書きで次のように指示している。「万々一、来年にアメリカ船が渡来するとあれば品川沖に違いなく、高輪、田町、芝あたりは海浜のため大混乱であろう。女子の事が気がかりで、近くの山の手に良い屋敷があれば避難場としたい。ちょうど品川屋敷が頽廃していたので、その代わりに取得したい」なかなか対応が早い。
秘密主義とされた
ペリー来航の予告情報は、オランダ商館長が内密にと釘を刺した通りに、日本側ではトップだけの極秘扱いにされた。その情報の流れは、前述の通り、先ず1852年頃に、阿部が溜間の有力譜代大名に見せ、暮れには外様の雄藩である薩摩の島津にも文書を送り、さらに島津から御三家の尾張徳川慶勝や水戸徳川斉昭らへ伝わったと思われる。
幕府内部でも秘密主義がとられ、通知は奉行レベルに止めたようである。したがって浦賀奉行の現場を担当する組頭や与力には知らされず、最初の対応にあたった与力の中島三郎助や香山栄左衛門らが「なぜお知らせくださらなかったのか」と後に奉行に迫った経緯がある。
このオランダ風説書の情報源は何か。アメリカ側資料と照合してみると、そこには増派予定はあったが実際には来ていないプリンセトウンなどの船名が入っていること、また「船将アウリッキ、使節の任を船将ペルレイに譲り」などの記述があることから、アメリカの新聞報道であった事がわかる。




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