周囲を取り巻く状況と外交戦略 ~北条氏康との和睦~ |
その理由とは、氏康が没する直前、この氏政に「上杉謙信と絶ち、武田信玄との同盟を復活せよ」と遺言していたからである。 信玄が今川氏真を攻略すべく、駿河侵攻をした際、氏康は一方的な甲相駿同盟の破棄を怒った氏康が、氏真との好誼を守り、信玄と断交。しかも、信玄と戦うために、それまで敵対していた越後の上杉謙信とも手を結び、いわゆる「遠交近攻政策同盟」によって、信玄を挟み撃ちにする外交戦略を展開したわけである。 ところが、謙信と氏康の越相同盟は、氏康にしてみれば全く計算外れの同盟であった。信玄の軍勢が関東に攻め込んできたときも、「留守を突いて信濃・甲斐を攻めてほしい」と氏康から謙信に後詰の要請をしているが、謙信は全く動こうとしなかった。謙信にしてみれば、下手に越後を留守にすれば、越中など隣国から攻め込まれる恐れがあり、動きたくても動けない状況であったのだが。 信玄は同盟時には、氏康からの援軍の要請を受けるとすぐに兵を送っており、「越後は同盟相手としては遠すぎる」との思いを抱き始めたのである。だからこそ「信玄と結べ」という遺言を残して死んでいったのだろう。
実態はどうだったのだろうか。信玄はどうやら早くから氏政の近臣の間に手を伸ばしており、氏政と謙信との間を離間しようとしていたかもしれない。その離間策も、氏康が存命中は表だってできず、死んだのを機に成功したととらえることもできる。 なお、この和平交渉の間に立って動いていたのは、小宰相という老女だったとされている。小宰相は、信玄夫人に仕えていた老女であり、氏政は11月初めから、この小宰相に連絡を取り、「和平のことを信玄に取り次いでほしい」と依頼している。よく、俗世間と縁を切り、「無縁」の立場に立った僧侶が、敵・味方の俗縁と離れて講和交渉に当たっているが、女性もどれと同じああるいは近い立場で、男たちの戦争をやめさせるために動いていたことがわかる。
だが、この「甲陽軍鑑」や「関八州古戦禄」の記事をそのまま鵜呑みにしてしまうのは危険であろう。元亀2年と推定される跡部大炊介勝資の、北条高広・景広(上杉家の重臣で上野厩橋城主)宛の文書には、「内藤修理亮談合致し、これをまいらせ候。然るに三ヶ条の御書付を以て、承りを通じ、つぶさにその意を得候。但し、かの修理は、去る比殖野陣において、相互に仰せ究めらる筋目に相替らず候。然らばすなわち、信玄・勝頼に申し聞かせに及ばず候の間、これを黙止候。惣別、当時、甲相入魂無二申合わざる上は、三和一統の外、成就しがたく候」とある部分が注目される。 この書状の内藤修理とは、いうまでもなく信玄の重臣で武田四天王の内藤昌秀(昌豊)である。当時、昌秀は上野の箕輪に在城し、彼が甲相一和の和平交渉に動いていたことが知られ、さきにみた「甲陽軍鑑」の重臣たちが和平交渉に反対していたというのとは矛盾が生じるのである。 もちろん、武田家の重臣の中には、上洛ではなく関東の制覇をむしろ目指し、北条との和睦に反対する気持ちを持っていたものもいたであろうが、基本的には信玄が天下を取るべく上洛を志し、そのためには東の安全を確保すべく北条と結ぶ必要性を認識していたのではないだろうか。その意味では甲相一和は、重臣サイドの大半は理解しており、かなり取りまとめが進んでいたものと思われる。 信玄の真意がどこにあるかは後述するが、やはり甲斐から京都までの道は遠く、数か月程度の遠征では都に旗を立てることなど不可能であった。長期遠征ともなると、大軍が遠征している間に北条に攻め込まれたらたまったものではなく、後顧の憂いをなくすために「甲相一和」を信玄側が望んだとしても不思議ではないのである。 |