1・外国軍艦の侵入 ロシア船南下 |
18世紀にすでに南下していたロシア船 |
18世紀末になると、日本各地に対する外国船の来航が多くなり、幕府の鎖国政策は大きな試練に直面するようになった。 だがこれより先、ロシアはすでに南下を始めており、正徳元年(1711)には占守島を占領。以来、千島列島を逐次南下し、明和2年(1765)にはラショワ島および新知島に至り、同3年には択捉島を視察し得撫島で越年、同4年には退去したが、これを機に得撫島にしばしば来航するようになった。 当時、択捉には原住民が定住し、松前藩の警備兵も置かれていたが、得撫以北には定住がなく、択捉の原住民が夏季出漁するだけだった。ところが明和7年、択捉より得撫に出漁したアイヌの族長以下がロシア人に射殺され、翌8年にも同様なことがあったので、原住民側は大挙して得撫のロシア根拠地を攻撃して、数十人を殺傷し、得撫よりロシア人を撃退してしまった。 その後はロシア人は住民に暴行を加えることなく交際するようになり、安永7年(1778)には霧多布の松前藩運上所に来て通称交易を求め、翌年にも同所に来航したが、許可はされなかった。 |
蝦夷地の開拓のきっかけとなる |
その後はおおむね平穏だったが、寛政4年(1792)Niはロシアのラックスマンが根室に来て通商を求め、同7年には得撫にロシア人34人が住居を建設し、永住の姿勢を示すなどあり、松前藩ではこれらの問題を処理しきれなくなった。そこで、寛政11年(1799)幕府は東蝦夷の地を7年間に限って幕府直轄地とし、箱館に奉行所を置きこれを管轄させた。 警備の担当は奉行の指揮を受け南部・津軽の二藩とした。 幕府は、江戸から役人を派遣して基礎調査を行ったが、その際南部領で馬60頭、牛4頭を求め視察経路に配置した。この時蝦夷人は初めて馬を見て、「驚き恐れて近寄るものなし。のちには使い慣れて喜ぶこと限りなし。此馬年々に子を生じて今蝦夷地に満ち満ちたり」といわれるようになった。 警備担当の両藩は各々重役2-3人、足軽5百人を差出し、箱館を本小屋とし南部藩は根室・国後・択捉に、津軽藩は砂原・択捉に勤番所を設備し、弓・槍・鉄砲・具足なども配置した。 このようにして寛政年間には蝦夷地が飛躍的に開明され、完成10年(1798)には近藤重蔵と山田鯉兵衛が国後・択捉の細部調査を行い、同11年には高田屋華嘉兵衛は択捉の紗那まで千五百石積の大型船の航路を開設し漁場を設け、12年には伊能忠敬が東蝦夷地の測量を行った。なお、西蝦夷の地は忠敬の門弟間宮林蔵が担当した。忠敬が日本全土の測量に従事したのはこの後である。 その間、得撫島のロシア人は幕府の退去命令に応じなかったので、原住民に得撫への出漁を禁止して交易を遮断した。このためロシア人は物資・食糧の欠乏に苦しみ、ついに文化2年(1805)に退去するに至った。幕府は同4年より夏期だけ同島に30余人の藩兵と原住民30人を派遣することとした。 |