武田復姓 勝頼の婚姻と義信の死去 |
信長が提示したのは、実の娘や妹ではなく、養女であった。その人選がなかなか興味深く、苗木遠山直廉の娘であったからである。確かに遠山直廉の妻は信長の妹だから、姪にあたる女性であり、一見すると何の問題もない。 しかしながら、遠山直廉は兄岩村遠山景任とともに、武田・織田氏に両属している国衆である。信長は、武田氏にも従属している国衆の娘を、自分の姪であるから養女として勝頼に嫁がせたいと申し出たのである。 幼少より信長が養い、姪とは言いつつも実の娘より可愛がっていた間柄と説明がなされたようで、事実なら、人質として預かっていたのだろう。養女を選んだ理由は、信長はまだ32歳で、嫡男すら10歳前後に過ぎない。20歳の勝頼の妻に相応しい年齢の娘がいないためだと述べたといい、筋は通る。 信玄は、いささか奇妙な縁談を受け入れた。同盟は①東美濃における織田氏との軍事衝突回避、②足利義昭擁立への賛意表明が目的だから、取りまとめを急ぐ必要があったのである。 信長養女は、高遠に輿入れした。永禄8年11月13日の事という。高遠城主としての諏方勝頼に嫁いだ形となる。法名から龍勝寺殿と呼ぶ。ちなみに近江亡命中の足利義昭から、上洛を促す正式な御内書が届いたのは、翌12月の事であり、信長との同盟樹立を見てのものかもしれない。
永禄10年8月、信玄は甲斐・信濃・上野衆から起請文を徴集し、自身への忠節を誓わせた。一般に「下之郷起請文」と呼ばれる。一斉徴集であり、内容は基本的に同じだから、文案は信玄の側で用意したものである。譜代家臣をはじめ、御一門衆・先方衆・果ては陪臣にも提出を求めた。 起請文は、川中島の出陣拠点であった小県郡岡村城で徴集し、付近の生島足島神社に奉納された。江戸時代に一覧が作られているが、すべてが残ってはいない。下之郷起請文の徴集意図は諸説あるが、やはり「義信事件」による家臣団の動揺が沈静化していないことを示す事は確かであろう。 永禄9年8月に先行して書かせた起請文は、個々の文面が異なる。親類衆武藤常昭は自身が派閥を作らない旨を、側近三枝昌貞に賄賂を贈ったり、知行宛行を約束されても、謀反を企まない事を誓っている。長坂昌国は、信玄の怒りを買っている人間や家中の大身と親しくしないと誓わされた。「義信事件」の首謀者長坂勝繁の実兄だから、当然であろう。
所が永禄10年10月19日、義信は30歳でその生涯を終えた。「軍鑑」は複数の箇所で「御自害」と記し、1カ所だけ「病死と申すなり」と書き添えている。飯富虎昌三回忌の四日後であり、自害とすれば、思い詰めての末の事であろう。 信玄にとって義信の死去は、大きな誤算であったのではないか。信玄が切腹を命じたのであれば、「軍鑑」は逆に病死を強調したはずだが、少なくとも信玄は病死を発表できなかったのだ。死因不明の義信死去は、家中に暗い影を落す。信玄は、義信事件」の事後対応に失敗したのだ。 しかし翌11月のはじめ、勝頼正室龍勝寺殿が、男子を出産した。幼名武王丸と名付けられたこの子は、後に太郎信勝と名乗る事になる。「軍鑑」は、あまりに喜んだ信玄によって、直ちに信勝と命名されたというが、事実とは考えにくい。 また、龍勝寺殿が難産のため死去したというのは明確な誤りである。信玄がここで自分の家督継承者は武王丸だと述べた話も同様である。そもそも「七つまでは神の内」と呼ばれた、乳幼児死亡率の高い時代である。無事成人するかすら、全く保証のない時代である。 傅役に任命されたのは、温井常陸介で、使番出身というから、家中では出世コースに乗った人物である。気立てが大人しい人だったというから、信玄は義信との激しい対立が脳裏によぎり、そのような人物を選んだのであろうか。 |