武田復姓 「義信事件」の勃発 |
これを、義信派の決起集会と捉える見解があるが、松尾信是を含めた6名は信玄・勝頼のもとで重用され続ける。また花押が据えられていない人物が4名おり、儀式の場に参会できなかったものと思われる。つまり、ここで何らかの密談がなされたとは考えにくい。己の味方する人物は誰か、を見極めるのがせいぜいであっただろう。 連署者のなかでは、長坂釣閑斉の次男とみられる長坂清四郎勝繁が、もっとも義信に近い人物と思われる。「軍鑑」は義信の側近を釣閑斉の嫡男源五郎とするが、源五郎昌国は勝頼の時代にも活動しているから、勝繁の誤りと思われる。 苗字が記されていない人物が5人おり、そのうち友光(花押無し)は、穴山信友から偏諱を受けた人物、つまり穴山家臣の可能性がある。一般に義信の傅役とされる飯富虎昌の名も見えないが、彼の実名は同時代史料で確認が取れないため、残り4人の誰かが該当するかもしれない。ただ、虎昌が傅役という話は「軍鑑」にはない。彼は信濃小県郡塩田城代として、北信濃の軍事を担当しており、甲府にいる義信の傅役など物理的に不可である。「軍鑑」は、一貫して曾根諏訪を義信の傅役と記す。 いずれにせよ、義信は父信玄に対し、クーデターを目論んでいた。具体的な時期は、永禄8年10月である。これは、11月に行われたとされる信長養女と勝頼の結婚の1か月前にあたるから、婚姻による同盟成立阻止であると指摘されている。織田信長との同盟は、今川への敵対行為としか、義信には映らなかったのだ。 もっとも、対今川氏外交取次である穴山信友の家臣が、二宮奉加に参加予定であったのなら、義信と穴山氏の関係の親しさを示す。義信は親今川派だから、穴山氏と関係を深めるのは当然と言える。信玄が駿河攻めの意向を漏らした相手は穴山家臣であった。当然、義信の耳に入ってもおかしくはない。
脇で報告を聞いた昌景は「7月頭より長坂が使いとして、兄のところに日々義信様の御書状を持って参っております」と、証拠として義信書状を差出した。信玄は涙を流し、実兄の謀反を訴え出た忠義を称えたという。 飯富昌景の報告によると、戦場での謀反計画とあるが、事実ではなかろう。義信自身の身が危うくなるし、大義名分もたたない。「軍鑑」は、信玄の行動には瑕疵はないいう筋立てで記すから、謀反の原因を信玄の失策とはできなかった。同書は義信について、「利根すぎる大将」つまり小賢しく、驕り高ぶりやすい人物と評している。あくまで義信謀反は、彼自身の驕慢によるもので、自己認識とは裏腹な、がさつな計画であるために失敗したという話にまとめられたのだ。 また、やはり飯富虎昌は義信の傅役ではない。傅役であれば、義信が屋敷を訪ねても、目付は不信に思わないだろう。義信はクーデターを起こすにあたり、家中の有力者の協力を求めた。虎昌は古参の重鎮で、義信の具足始めに際し、介添え役を勤めた人物である。率いる軍勢が「飯富の赤備え」と呼ばれた精兵である点も、眼を付けた理由だろう。 同年10月23日付で、上野国衆小幡氏の一門小幡源五郎に送った返書において、信玄は「飯富虎昌の所行により、信玄・義信の間を妨げる陰謀が発覚したので、虎昌を処断した。信玄・義信父子の関係は、元々何の問題もないので安心してほしい」と述べている。つまり信玄は、飯富虎昌に全責任を押し付ける道を選んだのだ。
長坂勝繁と曾根周防も処刑された。その他、義信衆80騎あまりを成敗し、残りのものは追放したという。穴山信君の弟で、永禄9年12月5日に自害したという信嘉は、義信の謀反計画加担を罪に問われたという説がある。義信の情報源はやはり穴山氏と見るべきであろうか。 兄と義信の謀反計画を訴えた飯富昌景は、この後武田氏宿老山県氏の名跡を相続し、山県昌景に改名した。 これが「義信事件」の顛末である。義信自身はその後、東光寺に幽閉処分となった。 |