武田復姓
信玄・義信父子の亀裂


 信長との同盟に向けて動き出す
信玄の対織田政策は、美濃遠山領を「両属」とし、緩衝地帯化することが基本である。しかし、信長は美濃攻めを継続しており、偶発的衝突が懸念されていた。それが、美濃土岐郡神で生じてしまったのである。信玄が同地の領主であった遠山右京亮に送った書状によれば、反武田方の攻撃、「信長公記」によれば武田勢による攻撃とあるから、境目の国衆同士の紛争が原因であろう。
懸念が現実化した信玄は、信長との同盟に向けて動き出す。具体的には、信長養女の勝頼への輿入れであった。ここに勝頼が遂に歴史の表舞台に現すのである。
「軍鑑」によると、両国の同盟交渉は、永禄8年9月9日に、信長から持ち掛けられて始まったという。一次史料としては、6月25日付で黒田城代和田新介に対し、「和親」仲介を求める信玄書状が、同盟交渉に関わるものと位置付けられている。ただ、和田信長に対して敵対していた犬山城主織田広良の家老で、その寝返りが犬山落城きっかけとなった人物である。おそらく織田広良服属に関する書状の可能性が高い。広良は、犬山落城後甲斐に亡命するからである。
武田氏と北条・今川氏との婚姻に関するやり取りからすると、交渉開始から輿入れまでは1年ほどかかっている。ところが「軍鑑」は信長養女の輿入れを11月とする。同書の記述を信じれば2カ月、和田新介宛書状を関連文書と見ても半年程度の交渉での輿入れで、そう焦る必要はない。
両国が同盟締結に本腰を入れた背景は、中央政界の動向にある。永禄8年5月19日、13代将軍足利義輝が、三好義継に殺害されるという衝撃的事件が勃発した。義輝の弟たちは三好一門に捕縛されるが、大和を治める松永久秀は、弟のうち奈良興福寺一乗院の門跡であった覚慶を軟禁したうえで、逃亡を黙認した。彼こそ、後の15代将軍足利義昭である。
近江甲賀郡和田、次いで矢島に入った義昭は、諸大名に上洛支援を求めた。信玄も御内書を受け取り、永禄9年3月に遠国のため断念せざるを得ない旨を回答している。上杉謙信に対する信長の説明を信じれば、同盟は義昭を奉じて上洛する際の安全確保が目的であったという。つまり信玄は、親義昭陣営参加を信長に告げたのだ。美濃の斎藤竜興と信玄の同盟成立が永禄8年末なのも、義昭奉戴と関係する。信長の上洛実現は永禄11年だが、永禄9年に一時的に織田・斎藤の和睦が実現しており、当初はこの年8月末に実行される予定であったからである。
  義信、織田との同盟に反発息子
しかし、今川義元の娘を妻とする嫡男義信は、信長との同盟に反対だった。実は、外交路線を巡る信玄と義信の対立は、かなり根深いものであったようだ。
天文24年(1555)と推定されている7月16日付信玄自筆書状が、写の形で伝わっている。「晴信」と署判しているから、信玄が得度した永禄元年12月以前、今川義元生前のものである。天文24年であれば、4月に始まり、閏10月に義元の調停で和睦した第二次川中島合戦の最中の書状となる。
自筆で密書をお送りします。そもそも義信のことですが、今川殿(義元)のために、(晴信と)父子の関係にある事を忘れています。晴信は五郎殿(氏真)にとって伯父にあたります。さらに長窪以来、現在に至るまで今川への軍事支援を行ってきました。何回も懇切丁寧な対応をしてきたにもかかわらず、このように等閑にされては、どうしようもありません。疎遠に見えて不信だというのですから、今度井上が帰国した時に直談したいと思います。その際、北条氏康から越中衆の国分と和睦調停についてしかるべきようにやって欲しいといわれたとのことですね。どんなに工夫しても過ぎることはありません。ただこちらにては和睦調停は、敢えてやらずにおりますので、その点を心得ておいてください。そのため、糊で封印した書状でお伝えします。謹言
  7月16日 晴信(花押影)

宛先が書写されていないのでわかりづらいが、北条氏康とも関わりがあって越中衆間の和睦調停を行える立場にあり、かつ信玄が胸襟を開いて話せる相手となると、浄土真宗本願寺派の僧侶で、武田氏の使僧であった長延寺実了師慶の可能性がある。実了師慶は山内上杉氏一門で、北条氏に追われて甲斐に亡命したようだ。信玄次男龍芳を弟子とし、娘を嫁がせている。
どうも義信は、かなり早い時期から今川氏への支援不足を訴え、親子関係に亀裂が生じていたらしい。文中「長窪」とあるのは、天文14年の今川義元による駿河東部奪回戦において、信玄が義元と北条氏康の和睦を成立させた件を指す。ただ、和睦調停に今川方は不満で、一時信玄との関係が悪化したという因縁浅からぬ話である。
この密書以後、信玄は信長との関係を深めていく。それが今川方を刺戟し、慶喜が反発するという悪循環を生んでいたのであろう。
 勝頼にも嫉妬する義信?
嫡子義信が今川氏の意向の代弁者となっている状況は、大変な苦痛だったであろう。何しろ、自身が父信虎を追放したという過去を持つ。自分がクーデターの手本をしめしたのも同然で、疑心暗鬼に陥りかねない状況にあった。
それでも信玄は、13代将軍義輝と交渉して義信に准三管領待遇という異例の恩典を与えて貰っている。信玄はこの栄典を自身ではなく、義信へ与えるよう求めた。来るべき、義信政権樹立への準備である。永禄5年の勝頼元服に際し、信玄が「信」の字を与えずに庶子と処遇する姿勢を示したのも、義信に配慮したからではなかろうか。
「軍鑑」には、義信は勝頼が城持ちとなった事に強い不満を示したという。義信には、いずれ家督が譲られるのだから、全くの虚構とされるものだ。しかし、義信が今川氏の代弁者となっているという信玄の告白、つまり感情論を踏まえると、話が変わってくる。
今川氏では、永禄元年までに義元が駿河・遠江の政務を嫡男氏真に委託し、翌2年には隠居して家督を交代した。義元は隠居の立場で、三河・尾張侵攻に専念しようとしたのである。
北条氏でも永禄2年末に氏康が大飢饉対策失敗の責任を取るとして隠居し、名目的ではあるが家督を氏政に譲り渡していた。このように形式的に隠居し、政務見習いをさせたり、役割分担するというのは、中世社会では珍しくない。つまり、義信が緊密な交際をしている氏真、さらに北条氏政は、すでに家督の座につき、政務の一部を任されているのである。ところが信玄はそのような行動をとる気配を見せない。義信が不満を持ったとすれば、勝頼が城主の地位を得たことではなく、信玄が形式的であれ隠居したり、政務の部分委譲をしないことにあったのだろう。その意味で、義信は勝頼に先を越されたのである。
義信が内政に無関与であったわけではない。弘治3年12月の寺領寄進状は、父子連署である。また義信は単独で将軍側近大館晴光などに書状を送っており、対外的にも信玄嫡男と認識されていた。永禄元年に上杉謙信との和睦を命じた将軍義輝の御内書が、父子連署宛なのも、このためである。
戦争に際しても、信玄とともに出馬し、間近で父の采配を見ていた。これらはすべて後継者としての政務見習いであったが、義信はそれだけでは納得しなかったのだ。
そして、特に正室嶺松院殿の実家今川氏の利益と合致しない外交政策には、反対し続けたものとみられる。舅である今川義元を討ち取った織田信長との同盟など、論外であった。




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