藤原氏の強さの秘訣
3.黄金 
~陸奥の黄金~
 


 みちのくの黄金花咲く
聖武天皇の天平20年(749)陸奥守百済王敬福は、陸奥国産の黄金900両を献上し、盧舎那大仏(東大寺の大仏)を建造中で金の不足に困っていた聖武天皇を喜ばせた。
大伴家持はそれを祝って歌を詠む。
すめろぎの 御代栄えむと あずまなる みちのく山に くがね花咲く
900両の黄金というのは、一両をおよそ12,5グラムとして11キログラムほどである。現在の金高(1グラム=2000円)に換算して2250万円相当。
しかし、当時の金の産地はみちのくだけではない。砂金洗取という原始的な方法で、古代から下野・駿河あたりでも金は採取されていた。さらに、陸奥産金の記録もこの年が初めてではなく、文武天皇の大宝元年(701)凡海宿禰という者を陸奥国に派遣して金を精製させている。
しかし、全国的には産出量は少なかったため、大部分を朝鮮半島から輸入していたのが実情だった。だから、敬福が900両の黄金を献上したとき、故郷の朝鮮半島から取り寄せたものを、陸奥国産と偽ったのではないかと疑われたほどである。
しかし、この頃「みちのく山に黄金花咲」いていたのは事実で、それで困っている聖武天皇の為、急遽900両の砂金を集めることも可能だったのである。奈良は喜びに沸き、年号も天平感宝、そして同じ年のうちに天平勝宝と改められた。
 金の山だった奥州
日本の産金は砂金が主流であったが、岩石を温めて水をかけ、ひび割れを作って露鉱を取り出すと言った方法などで、自然金の採掘もされていたようだ。
百済王敬福の献上金は、宮城県涌谷町の黄金迫産と言われている。その周辺は、朝鮮の砂金の産地と山の様子がよく似ているらしい。だが、岩手県陸前高田氏の玉山金山産だという説も根強く、この金山からとれた金を平重盛が中国の育王山の祠堂を造るために贈ったという言い伝えもある。
陸奥国には黄金迫、玉山の他、宮城県本吉郡金成、同津谷、岩手県気仙郡世田米、などが古い産地として有名である。さらには室根、猿沢、小金沢、今出山、堂場、鷲之巣、姫神、丸森など、岩手県南部の北上山地を中心に、奥羽山地の一部、現盛岡市以北を含めて、まさに金の山であった。それぞれ、天平年間に発見されたとか、安倍貞任の頃に採掘、藤原時代の産金地である(鷲之巣)といった言い伝えを持っている。
玉山金山はずっと時代が下った江戸時代に、冶金術が発達してからも大いににぎわったが、現在でも廃坑には厚い石英脈が見え、石英や水晶、雲母などがザクザク出てくるらしい。なお、東大寺の水晶の数珠は、玉山産の水晶らしく、昔は大仏を作るための金と共に、水晶もまたみちのくから奈良に送られていたのである。
 増える金の需要と重要性
天平13年(741)、聖武天皇は国ごとに国分寺を二つ作るようにという勅命を出した。二つのうち一つは僧寺で、金光明四天王護国之寺といい、もう一つは尼寺で、法華滅罪之寺というのである。さらに続いて天平15年(743)には、盧遮那大仏をつくることになった。
この国分二寺、盧遮那仏の建造、造営を中心とし、全国的に仏教興隆の気運があったからこそ、寺院、仏像等を造るための金が大量に必要となった。それで、陸奥国を中心とし、金山の発見採掘の促進奨励がなされたのである
金は奈良時代以降、陸奥国の貢納物であったが、金の需要が増すにつれ、他の国でも採掘がおこなわれるようになる。出羽国の谷口、東宝などは藤原秀衡時代に採金するようになったといわれる。
また、日宋貿易が盛んになると、輸入品に対して金が代わりに大量に輸出されるようになった。輸入の見返り金として、貿易の決済に使われるようになっていたのである。
砂金と違い、露鉱、岩金の採金は大掛かりで、人夫、資金を大量に必要とするため、陸奥国などは、秀衡の号令のもと、国を挙げて砂金、岩金の採金に精を出し、この時期、採金量は大いに増した。
そこを見込んだかのように、文治3年(1187)朝廷では秀衡に黄金3万両の貢納を命じてきた。換算して375㎏、7億5000万円相当である。朝廷がこのような要求をしてきたのは、治承4年(1180)暮れ、平氏が奈良を焼き討ちした際、東大寺大仏他が焼失したため、新しくつくる大仏の為の金が必要になったからであった。
秀衡はこの要求に対しては、「この頃商人たちが大勢来て砂金を買っていくので、当地はほとんど掘り尽くされたようです。なので申付け通りにはいきませんが、できるだけのことはします」と答えている。




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