藤原氏の強さの秘訣
2.財力 
~基衡の知略~
 


 摂関家に接近した基衡の手腕
関白藤原忠通は法性寺流の祖といわれる能書であるが、毛越寺金堂の額を揮毫「法性寺殿入木(書道)御師範」参議藤原教長が堂中及び小阿弥陀堂障子の色紙形に書したと、毛越寺建立関係記事にある。共に、揮毫料をぐんと弾んだことはいうまでもない。関白として満足させる揮毫料など、基衡にとっては軽い負担に過ぎなかったはずだが、どういう手蔓で関白に承知させたのであろうか。
奥州藤原氏は清衡の時代から摂関家とは交渉がある。基衡は摂関家の奥州荘園五か所を管理していた。それら荘園は忠通の父忠実から久安4年(1148)に忠通弟頼長へ譲られたが、すでに荘園年貢増徴が問題になっていた。その問題は、基衡と頼長との長い交渉の末、仁平3年(1153)に摂関家側にさしたる成果も見ないで決着する。忠実・頼長父子と忠通とは対立関係に入ったりするから、また、年貢の増徴を主張する相手に、忠通への揮毫依頼をあっせんしてもらうわけにもいくまい。
「古事談」「今鏡」によると、基衡は御室・仁和寺を介して依頼したとある。両書によると、忠通は仁和寺からの頼みで額を書いたが、「おくのえびすもとひらとかいふが寺」(今鏡)という。尤も、忠通は「所々の額を書さしめ給うの間」(古事談)と揮毫料稼ぎに励んでいたというから、毛越寺額っを取り戻した話は関白の名誉のための作り話であろう。
 富の力で都の文化を手に入れる
清衡・基衡・秀衡の三代百年間は平泉栄華の時代であった。
「寺塔己下注文」に話を戻すが、注文は無量光院について「新御堂と号す」と注し、本文は「秀衡之を建立す、其の堂内の四壁の扉に、観経の大意を図絵す、加え、秀衡自ら狩猟のていを図絵す、本仏は阿弥陀の丈六なり、三重の宝塔、院内の荘厳、悉く以て宇治の平等院を模するところなり」と、極めて簡潔に済ませている。但し、秀衡自身が「狩猟図」を画いたという特筆すべきことには触れている。
歴史の常識からすれば、現在に近い時代ほど史料も多く残り、語るべきことも多くあってよいが、時代を遡ればのぼるほど、拠り所となるべき史料は少なくなるものである。
無量光院の場合、なぜに簡潔な記述で済ませたのだろうか。無量光院は、氏の平等院を模するところが極めて大であったという。その実現のためには、京都あたりから各種の技術者たちを招き仕事を託すことが行われてしかるべきであった。平泉の富が大量に京都へ運ばれたことは言うまでもない。
従って、無量光院建立にまつわる話題に事欠くことはなかったはずである。語るべき事項があまりにも多すぎて、取捨選択に迷いほとんどを省いてしまったのか、省略した理由はほかにある。
平泉がその富の力で都の文化を手に入れる。摂関家ですら平泉の富を拒否できない。実はこうしたことを桁外れに積極的に遂行したのが基衡であったのではないか。だからこそ毛越寺建立にまつわる話題が平泉に広く根強く残ったのではなかろうか。秀衡も嘉勝寺や無量光院建立に際し同じ手法を用いたであろうが、それはもはや平泉側にとって至極当然であっただろうから、特筆書き残すこともないのではないか。




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