藤原氏の強さの秘訣
2.財力 
~黄金攻勢~
 


 毛越寺建立に際して京貴族との関わり
基衡が毛越寺建立に際し、京都の政権或いは貴族たちと如何に関わったかを、地元、平泉に残る同寺建立史から眺めてみる。その建立史とは、「吾妻鏡」文治5年(1189)9月17日条に収められている平泉寺院衆徒が注した「寺塔乙下注文」を指す。
この注文は、奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝の「清衡、基衡、秀衡の三代の間、建立する所の寺塔の事」の詳細な記録提出命令に応じて、平泉衆徒代表から提出された。その内容とは、「関山中尊寺の事」「毛越寺の事」「無量光院の事」その他五項目からなっているが、毛越寺に関する記述が最も長文である。
それによると、毛越寺の金堂の本尊は注文生産であったという。注文先は仏師雲慶。高名な運慶の事を指しているのか、はたまた別人なのか不明だが、運慶作ということは考えにくく、頭角を現してきた運慶の名を知りその作と称することにし、誤って雲慶と伝わってしまった可能性がある。
その仏像造立依頼に際し、基衡は上中下の三等級のうち中品を注文する。そして出来上がるまでの三年間「上下に向かう夫・課駄、山道海道の間に片時も絶えることなし」つまり、製作費をとどめのなく送り届けたというのである。
 莫大な資金を送り届ける
その手始めが、円金百両・鷲羽百尻・アザラシ皮六十余枚・安達絹千疋・希婦財布二千端・糖部駿馬五十疋・白布三千端・信夫毛地摺千端、その他に山海の珍物を添えたとある。また、別禄と称し生美絹を船三艘分を送った。雲慶が練絹ならなおうれしかったと口走ると、さっそくそれも適えてやる。こうしたすさまじい贈物攻勢の前に、さすがの雲慶も圧倒されたであろう。仏像の出来栄えは中品どころか、特上品であったはずだ。
こうしたことが都で評判にならぬはずがなく、やがて鳥羽上皇の耳にも達した。話題の仏像を拝した法皇は、「更に比類なし、よって洛外に出すべからず」と命ずる。それを知った基衡はうろたえた。やがて基衡は、「持仏堂に閉じこもり、七日夜、食事などを断って祈り、一方で関白藤原忠通にすがり、仏像の奥州下りの禁を解いてもらうことに成功し、やっと仏像を平泉に迎えることができたというのである。
この話から、基衡が持つ底知れぬ富の大きさに、人々は今更ながら驚かされたであろう。仏像注文に際し上品といわず中品としながら黄金攻勢をとった基衡の、中央人士との交渉・駆け引きの見事さ、またはしたたかさは目を見張るものがある。その一方で、基衡の財力は関白さえも動かしたことを知り、摂関家の落ち目を感ずる。




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