藤原氏の強さの秘訣
1.支配体制 
~血族・血縁~
 


 基成一族との連携
秀衡の岳父前民部少輔藤原基成(泰衡の祖父)とその一族の存在は、奥州藤原氏の奥羽支配を考えるとき、重要なキーポイントとなる。
彼は、康治2年(1143)4月、陸奥守に任命され、その後はブランクがあったが、仁平3年(1153)閏12月まで在任した。その間、康治2年6月には鎮守府将軍も兼ねている。離任後、いったん帰京して民部少輔に補任されたが、平治の乱(1159)の際に、首謀者の一人藤原信頼が基成の弟であったため、陸奥国に流された。
しかし、文治5年(1189)9月に殺害された泰衡の年齢を「吾妻鏡」は35歳と記録しており、逆算すると1155年生まれということになる為、基成の娘が秀衡に嫁いだのは離任前後ということになり、離任後しばらくの間陸奥にとどまっていた可能性がある。
仁平3年、基成の後を継いで陸奥守に就任したのが甥隆親であり、保元2年(1157)5月に隆親が内蔵権頭になると、同年9月には基成の叔父雅隆が陸奥守兼鎮守府将軍に就任している。これを見ると、基成やその一族と陸奥国との関係が極めて緊密なものであったことがわかる。
しかも、「柳之御所跡」遺跡から出土する遺物の中心は、ほぼ12世紀に位置付けられ、その時期は奥州藤原氏の全盛期に当たり、基成・隆親・雅隆の陸奥守在任時期とほぼ重なるのである。したがって、基成在任中から奥州藤原氏との関係が始まり、多賀国府を離れて平泉に居住していたとすれば、基成の関係から、隆親・雅親もまた基成同僚の環境にあったかもしれないのである。
その場合、国守の居住するところこそ国庁であって、多賀国府は留守所ということになる。行政に関連する「省帳・田文」などが平泉にあったとしても不思議はないのである。
その際、国政機関たる国庁が実質的に平泉にあったとすれば、それこそ「平泉館」であった可能性が大きい。しかも、養和元年には秀衡が陸奥守に就任しており、その時点で「平泉館」の主は秀衡にかわったのではなかろうか。
 奥羽全域に広がる血縁・郎従
「奥六郡」や「山北三郡」に対する地位に加え、押領使・鎮守府将軍や陸奥守という国家公権が、藤原氏の奥羽支配を可能にしたと言えよう。しかも、こうした国家公権だけでなく、姻戚関係によって結ばれた一族や郎従、そして各地の豪族がその支配を輔弼したのである。
たとえば、秀衡の従兄弟俊衛は樋爪冠者(岩手県紫波町南日詰)、その子師衛は太田冠者(紫波郡矢巾町)、忠衛は河北冠者を、さらに俊衛の甥経衛は新田冠者を、そして秀衡の四男高衛は本吉冠者(宮城県東北部の海岸地域)を支配したのである。
また、文治5年の奥州合戦に、藤原泰衡から出羽に派遣された田河行文・秋田致文は出羽国田川郡・秋田郡の豪族であろうし、源頼朝軍に捕縛された由利八郎は由利郡の豪族であった。
さらに、泰衡を殺した河田次郎は比内郡を根拠とする譜代の郎従であった。彼らもまた、藤原氏の支配の一翼を担ったのである。
奥羽南郡に対しては、信夫郡(福島市一帯)の郡司と思われる大庄司季春は、佐藤庄司の先祖と思われ、その子孫継信・忠信兄弟の母は、樋爪俊衛の妹である。いわき市内郷に現存する白水阿弥陀堂は、岩城則道に嫁いだ藤原秀衡の娘徳姫が、則道の死後出家した徳尼によって建立されたものというし、岩城氏の一族標葉氏が支配した福島県浜通りの浪江町にも、徳尼の伝承が伝えられ、阿弥陀堂が建立されている。
このようにみていくと、藤原氏は各地の豪族と婚姻関係を結び、その支配体制を維持していたと考えられる。すなわち、基本的には「六箇郡の司」「仙北三郡の俘囚主」そして鎮守府将軍・陸奥守という国家公権が、奥州藤原氏の権力の源ではあったが、それだけでは不十分であり、婚姻関係を通じて結びついた基成とその一族、各地域の豪族層がそれを補完したということだろう。




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