藤原氏の強さの秘訣 1.支配体制 ~鎮守府将軍秀衡~ |
嘉応2年(1170)5月、秀衡は鎮守府将軍に任命され、従五位下に叙せられたのである。なぜこの時期に任ぜられたのかはわからない。 しかし、在地の豪族で鎮守府将軍に任命されたのは、前9年の合戦後の清原武則以来3人目という極めて異例の任官であった。そのため、右大臣九条兼実は、その日記「玉葉」に「奥州の夷狄秀平(秀衡)、鎮守府将軍に任ず、乱世の基なり」と記し、嘆いているほどである。 さらに、治承4年(1180)諸国の源氏が平家追討に立ち上がると、平家は翌養和元年8月、越後の豪族城助職を越後守に任命するとともに、秀衡を陸奥守に任命して、関東の源頼朝・信濃の木曽義仲を挟撃しようとした。 この時点で秀衡は、陸奥守兼鎮守府将軍として陸奥(出羽も含まれていたであろう)に君臨したのである。ただし、鎮守府将軍については、安元2年(1176)に藤原範季が任ぜられており、国守も元暦元年(1184)10月までであって、国守に限って言えばわずか3年に過ぎない。
たとえば、泰衡敗死後、源頼朝が「奥州・羽州両国の省帳・田文以下の文書」を求めたところ、「平泉館」が炎上した際、焼失したとの応答があったという。「省帳」とは、民部省の管理する帳簿のことで、課税に関連するものが中心であったと思われる。 また「田文」とは、国内の田畠の面積を記したもので、この田畠の面積に応じて諸税が賦課されるのである。したがって、陸奥に関する行政機能を象徴する公文所ともいえる。 では、「省帳・田文」が平泉館に保管されていたことは何を物語っていたのだろうか。本来、多賀国府にあるべき「省帳・田文」が平泉に備え付けられていたことは、陸奥の行政機能が奥州藤原氏のもとに移管されたとも考えられる。 一方、「省帳・田文」は軍事・警察的権限を行使するだけでも必要な書類であるから、藤原氏が陸奥の行政機能までも掌握したとは言えないとも考えられる。 しかし、奥州藤原氏が国守に補任されなくとも、それに匹敵し得る立場(権限)を掌握することは可能ではなかったか。それを考える一つの観点に、秀衡の岳父基成とその一族の存在があげられるのである。 |