藤原氏の強さの秘訣
1.支配体制 
~陸奥六郡の支配権継承~
 


 俘囚の主
奥羽に住む人々、彼らの多くは京都の律令国家から「蝦夷(えみし)」と呼ばれ、「まつろわぬ民」として、常に征伐の対象であった。その結果、国家の支配下に組み込まれた「蝦夷」は「俘囚」と称され、その支配に反発する「蝦夷」とは区別された。
「俘囚」の多くは、当時の陸奥や出羽の一部に居住させられたが、それが岩手県南部に位置する胆沢・江刺・和賀・稗貫・斯波・岩手の六郡や、秋田県に属する雄勝・平鹿・山本の三郡であり、それぞれ「奥六郡」「仙北三郡」と称された。そして、彼ら「俘囚」の在地支配官として採用されたのが安倍氏であり、清原氏であった。
安倍氏や清原氏が直接戦った前九年、後三年の役において、彼らは滅亡し、変わって陸奥国司として赴任していた藤原経清と安倍氏の娘との間に生まれた清衡が、安倍氏と清原氏の地位、すなわち「六郡の司」「出羽仙北三郡の俘囚主」を掌握したことは間違いがない。
 奥州藤原氏の権力の源泉に
この「六郡の司」と「仙北三郡の俘囚主」の地位こそが、奥州藤原氏の権力の源泉であることが間違いない。しかし、この立場だけで奥羽全域に対する権限を行使する根拠とはなりえない。それでは藤原氏はどのような権限を掌握したのであろうか。
文治3年(1187)10月のことであるが、藤原泰衡は父秀衡の後を継承し、「出羽・陸奥押領使」として六郡を管領したこと、鎌倉幕府の編纂した「吾妻鏡」にみえる。押領使とは、地域の内乱や乱行を取り締まったり、さらには盗賊の逮捕などにあたった武官のひとつである。
しかも、曽祖父清衡は、「陸奥国押領使」に、祖父基衡も「六郡押領使・出羽押領使」にそれぞれ任命されていたことが「尊卑分脈(南北朝期成立)」に記載されており、秀衡も同じ地位にあったことが推測される。もっとも、この「押領使」という官職が本当にあったかどうかは、他の資料からは確認できないが。
この前提で考えていくと、清衡や基衡は、「六箇郡の司」や「出羽仙北三郡の俘囚主」という立場に、押領使の地位が加わって、奥羽全域に対する乱行取り締まりや盗賊追補という軍事・警察的権限が付加されたものと思われる。
したがって、清衡や基衡の時代には、奥州藤原氏は奥羽全域に軍事・警察的権限を行使したことは事実と思われるが、行政的権限までも掌握したかどうかは確実にはわからない。




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