ドキュメント藤原四代
 ~仏教信仰~
 


 平泉進出
清衡は、忌まわしい記憶が残る豊田館を出たかった。そのうえ、計画を実現するためには不便な土地であった。衣川を超えて居館を構えたかったが、衣川を在地勢力が越えたとき、これを阻止しようとしていつも戦乱が起きていた。清衡は時期を窺っていた。しかし、出羽で平国妙、師妙親子が反乱を起こし、そのために源義綱が陸奥守として下向してきたのである。義家との関係維持もあり、清衡は下手に動くことができなくなってしまった。
承徳2年(1096)10月、義家の引昇殿が許された。上皇も天下第一の武将を無視するわけにはいかなかった。義家を頼りとする清衡も、安心して行動を開始することができた。
翌康和元年、かねてから心に決めていた平泉についに進出したのである。京都から戻って早8年が過ぎていた。経済的基盤となる交易を拡大するためにも、北上川の水運を重視しなければならないし、万一の場合にも防備がしやすい軍事的な立地条件も満足できる場は、平泉しかなかった。いよいよ、京都で学び、考えたことを実行に移す時が来たのである。平泉進出は、慎重かつ大胆に実行されていった。
清衡が第一に望んだのは、平和国家の建設である。幾多の戦乱にまみれ、苦労した生い立ちを考えれば当然のことであったろう。そのための手段として、みちのく統治の根底に仏教を据えたのである。関を越え、南から北へ延びる道の頂点に立つ関山に、まず中尊寺を造営した。この関道に面し、徐々に多くの堂宇が建ち並んでいっただけでなく、白河関から外ヶ浜(青森市)までの一町ごとに笠塔婆をたて、旅人の道標とした。その中心が関山で、その中でも一際聳えていたのが高さ五丈(約15ⅿ)の「二階大堂号大長寿院」であった。
 中尊寺金色堂
これらの堂宇の中にひっそり建ったのが金色堂であった。明治30年(1897)の修理の際、内屋根棟木下端から墨書が見つかり、天治元年(1124)8月20日上棟されたことが明らかになった。堂の名はないが、大工や工人たちの名の下に「大壇散位藤原清衡」とあり、その下には「女壇」として「安倍氏、清原氏、平氏」と三列に記されていた。清衡に関わる女性たちであり、平氏は最後の正室北の方であることは間違いないが、安倍氏、清原氏については先妻なのか母なのかの判断は難しい。
一辺がわずか5.4ⅿ四方の小さな方三間堂で、屋根は宝形造り、流し板葺きであるが、厚板に瓦の厚みや葺き足を掘り出し、丸瓦も丸太に瓦型を彫り出したものである。軒裏、壁はもちろんのこと、内部は床、壁、天井に至るまで金箔を押している。文字通り金色燦然と輝いている。金色もさることながら、内陣の荘厳はまさに平安美術の全てが凝縮されているようである。
四天柱は七宝荘厳の巻柱といわれ、心木となる柱の外に八枚の板を張り、漆、螺鈿の荘厳に直接力が加わったり、ひび割れが仕上げに影響のないように配慮されている。
須弥壇は漆芸ばかりではなく、格座間の孔雀、鏡板など金鍍金、銀鍍金など金工の全てが尽くされている。勾欄には紫檀を用い、稜線には象牙まで用いられているのである。壇上の仏像群も「吾妻鏡」が「定朝これを作る」と記すほど定朝の流れをくむ当代一流の仏師の作である。
金色堂の造営と並行して、もう一つの大伽藍造営が進められていた。中尊寺には「中尊寺建立供養願文」が二巻現存し、原本ではなく写本ではあるが、国の重要文化財に指定されている。
この願文は「敬白 鎮護国家大伽藍一区事」ではじまり、建立された堂塔の形式、規模、本尊などが記され、建立の趣旨の中には鎮護国家のためばかりではなく、度重なる戦乱で亡くなった多くの霊を弔い、敵味方はもちろん、鳥獣から小さな虫までも浄土に導こうとする、清衡の心情が十二分に吐露されている。

北の都・平泉
平泉進出以来、清衡は奥大道の通過する関山に中尊寺を造営し、ついで毛越寺をも建立した。当時、どれほど都市として完成していたか、清衡の居館がどこに構えられたかなど、不明な点が多い。自然湿地、池、大小の河川などがあり、京都のような碁盤の目のような条坊制は実施できなかったが、自然地形を巧みに利用して居館、家宅、寺院などが配置されたため、発掘調査によらない限りは、都市の形態が見えにくい。
清衡の周辺には、地元出身者だけではなく、中央から清衡を頼って多くの高級官僚までが集まってきた。それは朝廷でも問題になったほどであった。中央との交流は常に密に行われ、交易も活発に行われていた。そのための出先機関も京都に設置されていたと推察される。
基衡そして秀衡によって、平泉館が北上川の河岸段丘上に造営されてから、都市として平泉は大きく変貌した。




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