ドキュメント藤原四代 ~清衡の時代~ |
清衡は、一先ず安倍の残党を集め、基盤を固めていった。そして最初に、戦乱のため滞っていた貢金を、陸奥の名神大高山社と刈田峯社に代わって神祇官に納め、清衡の存在を周囲に認知させていった。 京都に戻った義家は何処の国司にも任命されず、朝廷は義家の弟義綱に目をかけるようになってきていた。ちょうどその頃、荘園寄進をめぐるトラブルが二人の兄弟間で発生し、緊迫した空気が京都の町を覆っていた。 清衡はどうしても京都に上ってみたかった。周囲の動静や作物の出来を確認すると、先の戦乱で行動を共にした信頼できる人物に留守を預け、少数の配下を率いて京都に出発した。頼りにするのは義家であり、道中にあってはともに戦った東国の武将たちであった。
朝廷の制止にもかかわらず、義家の基に荘園を寄進する者、参集する武将は後を絶たなかった。その勢いに押されたためか、戦火を交えることなく、事件は終息していったようだ。 清衡は見聞を広めると同時に、父方の縁者検非違使左衛門尉藤原季清を探し尋ねた。実はこの季清の孫が、のちの西行法師である。季清に出会うことによって、清衡の知識、交流範囲はさらに増幅されていった。 秋も深まり帰国を考えていたころ、義家から思いがけない朗報がもたらされた。11月21日夕刻、関白藤原師実の邸に案内されることになったのである。申し分のない駿馬二頭、荘園の寄進状などを用意し、義家の後に従った。 帰途、義家は上機嫌であった。関白殿に清衡をどう紹介し、どのような話が交わされたかはわからないが、清衡の今後にとって大いなる成果になったことは間違いない。関白師実は清衡たちが立ち去るとすぐに、嫡男師通に使者を送りこのことを伝えた。そして師通はその日の日記に「清衡始貢馬於殿下」と朱書きを加えている。 十二分の成果を得た清衡は帰国を決意した。そのことを義家に伝えると、義家は母方の縁者の女を妻に迎えるように勧めた。この女性こそ、金色堂棟木墨書や金銀交書一切経にある「北方平氏」である。 |