不比等の時代 ~不比等の前半生~ |
内大臣鎌足の第二子である。一名は史。斉明天皇5年に生まれた。公は避ける所が有って、まずは山科の田辺史大隅等の家で養われた。それで史と名付けられた。母は車持国子の女で、与志古娘である。 この伝のとおり、史(不比等)が斉明5年(659)の生まれであるとすると、鎌足が死去した年には11歳、壬申の乱の際には14歳であったということになる。 史(不比等)がこのまま、天武朝を不遇のうちに過ごしたというところまではないにしろ、鎌足の死直後に出仕できるような年齢ではなく、しばらくは田辺氏の庇護下にあったのだろう。史(不比等)が百済系渡来人のフミヒトである田辺氏の許で幼少期を送ったという事は、後に律令や国史に深くかかわる機縁となったものと思われる。 なお、壬申の乱において近江朝廷側の別将として倉歴とタラノで戦った田辺史小隅という人物がいる。恐らく彼は田辺大隅の近親、弟であろうと思われる。乱の終結後、実戦部隊識者として処刑されたのであろう。
さらに画期的な婚姻が成立した。史(不比等)がその嫡妻として、斉明朝から天智朝初年にかけての大臣(オホマヘツキミ)蘇我連子の女である娼子を迎えたのである。娼子は天武9年(680)武智麻呂、同10年に房前、持統8年(694)に宇合を、それぞれ産んでおり、二人の結婚は天武7,8年(678~9)の事と思われる。史(不比等)は、天武7年には20歳であった。 この婚姻によって、史(不比等)は大臣家としての蘇我氏の尊貴性を自己の子孫の中に取り入れることが出来た。藤原氏は氏として成立したばかりであるにもかかわらず、蘇我氏の高い地位を受け継ぐ氏であることを支配者層に示すことが出来たのである。なおこのことは、渡来人を配下に置くことによって手に入れた最新統治技術の独占もまた、藤原氏の時代には、律令という法体系となったという違いはあるにせよ、蘇我氏と藤原氏に共通するものである。
史(不比等)は、蘇我氏の尊貴性を自己の中に取り入れたのみならず、蘇我氏が6世紀以来行ってきた天皇家との姻戚関係の構築によるミウチ氏族化という政略も同時に取り入れることが出来、それは7世紀末以降、藤原氏の基本的政略として受け継がれることとなった。 8世紀の天皇家は藤原氏と幾重もの姻戚関係を持っていたが、史(不比等)の息男である武智麻呂と房前、宇合が蘇我氏の血を濃く持っていたという事は、8世紀の藤原氏と天皇家とは、蘇我氏を通じてもミウチ関係にあったことになる。これによって、8世紀前半の律令国家の中枢部分は、あたかも天智・天武兄弟と、蘇我氏と、藤原不比等の三者の血によって構成されていたかの観を呈することになったのである。 なお、史(不比等)はその後、賀茂比売との間に一女の宮子、二女の長我子を儲けている。賀茂朝臣は壬申の乱の功臣である鴨蝦夷を出した氏で、大神氏の同族とされるが、「賀茂神社を斉き奉る」とあり、これは「延喜式」に見える「葛木鴨社二座」のことであるから、不比等は五世紀に大王家に后妃を出したという伝承を持つ葛城集団の地盤である葛城地域とも縁を結んだことになる。 |