不比等の時代
 ~鎌足後の中臣氏~
 


 振るわない中臣氏
鎌足が死去した後、藤原氏を継いだ官人はしばらく現れなかった。鎌足長子の真人は出家して定慧(貞慧)となり、白雉4年(653)に入唐し、すでに帰国直後の天智4年(665)に死去していたし、次子の史(後の不比等)は鎌足が死去した時点で未だ11歳に過ぎなかった。
せっかく鎌足が賜わった「藤原氏」も、一代限りの名誉称号として消えていく可能性も十分にあったのである。中臣氏の官人としては、中臣金がその氏上を継いだが、彼は中臣氏の伝統的な宗業である神祇にも従事しており、大友皇子を首班とする「天智天皇体制」で右大臣に任じられたとはいえ、政事と神事を兼ねる立場で王権に仕奉していたものと考えられる。
この時の政権は、蘇我氏二人と中臣・巨勢・紀氏の5人で大友皇子を補佐するものであった・天智としては、これまで数々の陰謀で手足となって働いてきた蘇我氏と、鎌足以来の忠誠心を発揮してくれそうな中臣氏を中心として、大友皇子の支持勢力としたのである。
だが、この「五大官」も、天智に仕える気持ちはあっただろうが、地方出身の卑母を持つ大友皇子にどれだけの忠誠心を持っていたかは極めて疑問である。そして12月3日、天智は近江大津宮で死去した。
 壬申の乱
半年後の天武元年(672)6月24日、大海人王子と鵜野王女、そして草壁王は吉野を進発した。壬申の乱の勃発である。大海人王子たちは、各国の拠点に集結していた、対新羅専用に大友王子が挑発した農民兵を接収し、鈴鹿山道・不破道を閉塞することによって近江朝廷と東国を遮断し、三方面軍を大津宮に進撃させた。そして7月22日の瀬田橋の戦いによって、近江朝廷は壊滅し、大友王子は23日に山前で自殺した。
8月25日に至り、大海人王子は高市王に命じて、「近江の群臣の犯状」を宣告させた。近江朝廷の五大官では右大臣中臣金のみが斬刑に処されている。あるいは大海人王子と鵜野王女の吉野進発を知った際に、大友王子に追撃を進言した事によるものかもしれない。


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