ナポレオンの戦いの軌跡
~エジプト遠征~
 

 五万人を乗せた大艦隊
ナポレオンは東方(オリエント)への幻影にとりつかれていたのかもしれない。あるいは東方の君主の生活を夢見ていたのかもしれない。だが、ナポレオンがそんな理由でエジプト遠征を企てるであろうか?
ナポレオンの行動には常に計算が伴っていた。この時期、つまりイタリア遠征以後、彼の目標は国家元首の座を射止めるという一点に定められていたとみて間違いない。どのような手段によってその目標を達成するか。憲法の規定によって29歳のナポレオンが総裁に選出されることはない。
5人の総裁は皆このイタリア遠征の英雄を警戒し、敵意を示した。クーデターの見込みはなかった。
「私はここに留まっていたくない。彼らは何も聞き容れてくれようとはしないのだ。東方に行かなくてはならない。偉大な栄光はそこからやってくるのだ」
秘書のブーリエンヌは将軍の言葉をこのように書き留めている。機会が来るのを待たなくてはならない。その間にエジプトを征服し、一層名声を高め、凱旋将軍として帰還する。ナポレオンの計算はおそらくそのようであったろう。
政府はナポレオンの計画を承認し、オリエント派遣軍司令官に任命した。総裁たちには格好の厄介払いでもあった。
 マルタ島の攻略
1798年5月19日、旗艦東方号はトゥーロンを出港した。船団は3万2千人の歩兵、騎兵、砲兵などの戦闘員、1万7千の水兵や水夫、200人もの学者や芸術家、合わせて約5万人が分乗した200隻を超す輸送船、30隻を超す戦艦から成る大艦隊であった。
6月9日、艦隊はマルタ沖に到着した。シチリア島の南に位置し、マルタ騎士団によって統治された堅牢な要塞の岩島である。同月11日、マルタ全権団は東方号艦上で降伏協定に調印。翌日、フランス軍は首都ヴァレッタを占領。
要塞化された島は難攻不落と思われたが、マルタはほとんど抵抗せず降伏した。同行のナポレオンの秘書ブーリエンヌが書いているように、マルタの側に裏切りがあって、中から城門が開かれ、ナポレオン軍の侵入を簡単に許したようだ。
ナポレオンがマルタ島を攻略したのはなぜだろう。政府は、フランスと戦争状態にある事を理由に占領を命じている。ナポレオンも、マルタは革命以来フランスの敵であると、攻略の理由を述べている。
ナポレオンは敵国という口実でもってマルタ島を征服した。そして騎士団を解体し、旧支配秩序に替えて、法的平等、奴隷解放、学校教育など近代的改革を推進するとともに、ヴォブワ将軍を総督として、軍政の占領統治体制下にマルタ島を置いた。
だが、マルタ島攻略の真の狙いは、革命に敵対する旧体制下の要塞の島を征服し、近代的改革を行うというより、むしろ、騎士団の巨額の財産にあったのだろう。それは中世以来、信徒の寄進やヨーロッパ各地の騎士領からあがる地代によって蓄えられたものであった。
 ネルソンによって壊滅
首都を占領すると、ナポレオンはすぐに、騎士団や修道院などの財産の接収を命じた。その財産の多くは、恐らくエジプト侵略に向けられたことであろう。6月19日、兵力4千の占領軍を残して、艦隊は島を離れ、エジプトへ向かった。ナポレオンは東方号の艦上で、将兵へ向けて「諸君はこれから征服にとりかかる。この征服が文明化と商業におよぼす影響は計り知れない」と述べている。
エジプトは16世紀以来オスマン・トルコ帝国の支配下におかれていた。18世紀末の人口は250万人。中央から派遣された総督がいたが、マムルークと呼ばれる騎士集団が在地権力を握って支配集団を形成していた。
7月1日、遠征軍はエジプトに上陸した。翌日、アレクサンドリアを占領し、すぐにナイル河に沿って南下し、首都カイロへ向かった。砂漠の灼熱の中で、マムルークや遊牧民ヴェトウィンの襲撃に悩まされた。「遠征軍が味わった幻滅、絶望を言葉に表すのは困難である」とナポレオンは後に語っている。7月21日、ピラミッドでエジプト軍の迎撃を粉砕し、翌日脅えおののくカイロに入城した。
ナポレオンはエジプトを植民地にする考えであった。そして彼自身は、エジプトを軍政下において、しばらく後に帰国するつもりであったろう。兄のジョセフに、2か月後には帰国できましょう、と手紙を書いている。
しかし計算が狂った。8月1日、フランス艦隊は、アレクサンドリアの東に位置するアブキールの沖で、ネルソンの率いるイギリス艦隊に撃滅された。ナポレオンはエジプトを征服したものの、もはや艦隊はなく、地中海はイギリス海軍に制圧され、エジプトに閉じ込められてしまった。
しかもこの敗北はイギリス、オスマン・トルコ帝国の反攻を勢いづけ、第二次反フランス同盟の結成を促進した。ナポレオンが兵力1万3千の大軍を率いて企てたシリア遠征は、オスマン・トルコに対する先制攻撃であった。シリアは人口240万。エジプトと同様にオスマン・トルコ帝国の支配下にあった。
 ナポレオン、エジプトを脱出
1799年2月10日、ナポレオンはカイロを発ち、シリアに向かった。同月20日、アルアリーシュ占領。次のヤーファでは、エジプトの歴史教科書に「ヤーファの殺戮」と記述されるほど、シリア兵を大量虐殺した。
4月初め、アッカ。人口40万を数え、オスマン・トルコ帝国の拠点都市であった。シリア軍はイギリス海軍とトルコ海軍の支援を受けた。フランス軍は2か月にわたる凄惨な陣地戦を強いられ、結局攻略することができなかった。フランス軍はすでに甚大な兵力損失を蒙っていた。ナポレオンがシリアからの撤退を決意したのはそのためであろう。
この時、兵力は半減していた。破壊、略奪、殺戮を繰り返し兵力を消耗するのみで、所期の目的を遂げることなく、6月14日ナポレオンはカイロに戻った。トルコ軍はナポレオンの撤退を追うようにしてエジプトに向かった。7月11日、イギリス艦隊に守られて、アブキールに上陸。ナポレオンはこれを迎撃し、撃滅した。
8月11日、多数の捕虜を連行してカイロに凱旋した。本国との音信はほとんど途絶えていたが、ナポレオンはこの時、イギリスの新聞から、ドイツやイタリアでフランス軍が敗退していることを知った。エジプト脱出を決意したのはこの時であろう。派遣軍をクレベール将軍に委ね、8月23日、将兵300人を連れて2隻のフリゲート艦でアブキールの近くから密かにエジプトを離れた。
1801年9月、エジプト派遣軍はイギリス・トルコ連合軍の攻撃を受けて降伏した。マルタ島では、占領軍は住民の蜂起に押されてヴァレッタに閉じ込められ、食糧と弾薬が尽きて、すでに1800年9月に降伏していた。




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