医学と衛生
 ~二度目の衛生局長
 


 再び衛生局長に
後藤は明治28年9月、石黒と長与の推薦によって再び衛生局長の地位に就いた。
この二度目の衛生局長時代に、後藤が最も力を入れて推進しようとしたのは、ドイツで学んだ社会政策であった。かつて治療から予防へと進み、遂に衛生局に入ったように、今度は肉体の健康から社会の健康へと後藤の関心は進んだのである。
具体的に後藤が進めようとした政策は多岐にわたるが、最も重点が置かれていたのは貧民の為の大病院の設立と、労働疾病保険(今日の健康保険に相当)であった。その目的は救貧であり、さらに防貧であった。
興味深いのはそのための資金計画であった。28年最初にこの案を立て、伊藤博文首相に提案したとき、後藤が注目したのは清国の賠償金であった。軍備増強も産業の充実も運輸施設の改善も必要だが、このような「建設的社会制度」を施すことこそ「国本を堅固」ならしめるため最も望ましいと後藤は論じた。しかも三国干渉によって遼東半島を還付することになり、清国はさらに追加の賠償金を払うこととなった。遼東半島経営のための資金が不要となった事を考えれば、事態はますます好都合となったと後藤は述べている。当時にあって遼東半島還付を歓迎したのは後藤くらいの者であろう。なお、この案が失敗してからは、後藤は社会政策の為に増税を提唱し、いくつかの具体案を提示しているが、その一つに一種の目的税があるのは興味深い。
 台湾へ
しかし、後藤の社会政策の提唱は、いずれも実現のはるか手前で失敗に終わっている。当時の財政状況、政治状況から見て、もっと緊急の事業がたくさんあったのである。こうした政策が多少とも実現され始めるのは日露戦争後ないし明治末期、社会主義の成長に政府が危惧を持ってからであった。おそらく後藤は進み過ぎていたのである。
一般に後藤が成果を挙げるのは、プロジェクトを率いたとき、つまり課題の存在が誰の目にも明らかな時であった。これに比べ、通常の組織を率いたとき、つまり課題がまだ自明とはなっていない時には、平凡な結果に終わる事が少なくなかった。当時日本の衛生行政は、すでに創業の時を過ぎて、平時を迎えようとしていた。衛生事務と救貧事務とを結合するよう提唱したことからもわかるように、後藤の構想は内務省衛生局の通常の仕事の範囲を超えようとしていた。後藤が衛生局を去る日が近づいていたのである。
その一方で、日本は一つの明白な衛生上の難問に遭遇していた。日清戦争によって獲得した台湾の問題であった。後藤は職責上当然これに関与することとなった。特に困難であった阿片問題について、後藤は明治28年衛生局長に復活して以来、独自の阿片漸禁論を提唱していた。これが縁となって後藤は明治31年衛生局長を辞し、台湾総督府民政局長に就任することとなる。


TOPページへ BACKします