医学と衛生
 ~臨時陸軍検疫部
 


 日清戦争引揚者の検疫
無罪となった後、後藤は再び役人となることを好まなかったという。局長時代その権勢をめがけて集まった人々はもちろん、衛生局の同僚まで、入獄と同時に彼の周囲から去っていったことが不快でたまらなかったからであろう。
しかし後藤は明治28年1月、石黒の推薦で中央衛生会委員となた。石黒は後藤の才能を惜しむ一方、その激しく角がある性格を危ぶみ、野に放って危険人物としてはならないと考え、役人ではないからと説得して後藤に就任を承諾させたのである。ほかにも同様に考える友人や知人は少なくなかったようだ。
この頃、日清戦争も終わりに近づき、帰還軍人の為の検疫事業が懸案として浮上していた。野戦衛生長官としてこの問題に最大の責任を負っていた石黒は、児玉源太郎陸軍次官に対し、後藤を最適任者として推薦した。
この検疫は巨大な事業だった。検疫所は宇品付近の似島など合計三カ所に作られ、似島では一日五千ないし六千人、他の二カ所では一日二千五百~三千人を検疫することとなった。三カ所合計で敷地は六万六千坪、施設の建坪は二万一千坪、これにしかも最新の設備を備え付けなければならなかった。後藤はこの工事を二カ月で完成するように命じ、これを実現した。そして6月1日から検疫を開始し、船舶数687隻、人員23万2千人の検疫を事実上2カ月で完成したのである。これは世界に誇りうる成果であったといわれる。
 児玉源太郎と出会う
この時期、後藤にとっても最も多忙な時期であった。1日3時間しか眠らなかったとか、43日間床に入らなかったとかいうエピソードが残っているが、ほぼ真実だろう。後藤は広島の検疫部出張所を閉鎖して、8月21日に帰京したが、別人のようにやつれ、疲労のあまり口もきけない有様だったという。
後藤も必死であった。相馬事件という挫折の後で、社会復帰できるかどうかこの仕事にかかっていた。石黒は6月13日後藤に書簡を送り、「貴台之有為之才なる事は、人皆之を知れとも、相馬事件より何となく山師じみ候感を世上に与へ候」と述べ、「希くは今回之事にて貴台の溢るる斗りの誠あることを御表世有之度希望二候」と後藤を激励した。
この激励に後藤は見事に応えた。それだけではなく、ここで児玉源太郎の知遇を得ることになった。児玉は陸軍内外からの後藤に対する批判を一人で引き受け、後藤に自由な手腕を振るわせた。これが後に児玉台湾総督、後藤民政長官のコンビとなるのである。






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