医学と衛生 ~相馬事件~ |
福島県の旧相馬藩主・相馬誠胤にまつわる事件がそれである。誠胤は、精神異常であるとして明治12年より邸内に監禁されていた。ところが誠胤は実は正常であり、監禁は誠胤の腹違いの弟に家督を継がせようとする一派の陰謀であるというものが現れた。元藩士・錦織剛清はその中心人物であった。事件は旧幕府時代のお家騒動の類として広く興味を引き、錦織は忠臣義士として人気を集めた。 後藤は須賀川に学んだから、相馬家は親しい名前であった。そして愛知県病院の事務局長をしていた今村秀栄は相馬藩の出身で誠胤の境遇に対する同情者であった。この今村を介して明治16年末錦織にあった後藤は、錦織の運動に協力することになった。後藤は誠胤に改めて充分な診察をするよう主張し、精神病者の取扱いに関する警視庁の規制の不備を追求し、それぞれ改善を勝ち取っていった。明治20年には、錦織が巣鴨の病院から誠胤を強奪することに暗黙の指示を与え、一時自宅に誠胤をかくまうことまでした。これは明らかに犯罪であったが、政府は条約改正を控えていたから、後藤の行為を放任した。事件が一段と拡大し、日本における人権保護の問題に外国の注目が集まるからである。 後藤の努力もあって、誠胤に対する待遇は改善され、明治20年4月には比較的平穏な自宅療養に移されることとなった。こうして事件は解決するかと思ったが・・・・。
後藤が相馬事件に深くかかわったのは、義侠心から出たものというよりは、精神病者への否文明的な取扱いに対する怒りから出たものであった。いい加減な診察、充分な証拠の無い監禁、入院の名による非人道的な待遇などを後藤は正そうとしたのであった。その意味で相馬事件は衛生局時代の後藤の文明の為の戦いの一環を成すものであった。しかしその行動はいかにも乱暴であった。錦織は結局のところ、世間の名声と相馬家の財産を狙った野心家であったらしい。この錦織にコミットし過ぎたのは、やはり後藤の失策であった。半年の入獄は、そのために彼が支払わなければならなかった代償であった。 |