医学と衛生 ~衛生局長時代~ |
衛生局長となった後藤は、留学時代とは人が変わったように意気軒昂であった。後藤のドイツ時代を目撃していた金杉は、「帰朝早々衛生局長と為りたる伯(後藤)は、気迫万丈にて、その鼻息は万人を吹き飛ばす勢いにて・・・在独中寡言沈黙の士は、忽ち変じて多弁冗舌の士と変じ、鋭利を増したのである」と述べ、その変貌ぶりを皮肉った。 新たな地位において後藤は、留学中に得た医療・衛生に関する新知識ー文明―を、彼固有の独創的な方法によって日本に施し、植え付けるために手腕を振るった。局長就任直後に漢方医の復権運動と対決し、これを制圧したのはその一例である。すなわち、明治25~26年の第五議会には、医師免許規則を改正し、漢方医を復活させようという法律案が漢方医系の議員から提出されていた。これに対し後藤は、反漢方医の医師議員、石黒陸軍医務局長、および清浦司法次官の強力を得て、公衆衛生、軍事衛星、そして司法鑑定の立場から漢方医の無用を徹底的に暴露し、この法案を葬った。そのやり方は極めて強引で、もう少し穏やかな解決方法はなかったかと思わせるほどである。しかし、文明化の確信に支えられた後藤にとって、漢方医学を西洋医学と同等に扱えという問題では、妥協の余地はなかったのであろう。
もう一つの障害は、伝染病研究所の設立に対する周辺住民の反対であった。こうした無知からくる反対も、後藤にとっては我慢のならないものであった。ある日後藤は、部下に命じて秘かに伝染病研究所の看板に墨を塗らせたことがあった。住民に反対運動の行き過ぎと思わせ、彼らを運動から離反させるためであった。後藤にしてみれば、北里という人材がそこにあり、ツベルクリンの開発という課題がそこにあった。このような文明化の行く手を阻む無知蒙昧な住民の動向など、少々策謀を使っても排除してもかまわないと考えたのだろう。ともかく、文明化の確信に支えられ、しかもそれが可能だと見たときの後藤は強引であった。 しかし、全体として見れば、後藤は「生物学」の原則に従って、慣習を重視する立場を貫いた。衛生局長就任後も、約1年をまず調査事業に費やすほどであった。 そしてこれから本格的な事業に着手しようとした時、後藤は大きな挫折に見舞われる。相馬事件による拘引・収監がそれであった。 |