医学と衛生
 ~ドイツ留学~
 


 ドイツへ
明治23年(1890)4月、後藤は32歳でドイツに留学した。在官のまま、調査費のみを支給されての私費留学だったので、生活は楽ではなかった。
後藤の留学計画は、少なくとも明治13年には存在していたから、10年がかりの宿願の実現であった。東北の片隅で「変則」医学を学ぶことしかできなかったコンプレックスを払拭するためには、本場に留学することこそ最高の、またほとんど唯一の方法であった。後藤は、医学修行に続く第二の、そしてより直接的な西洋との出会いを持つこととなった。
しかしドイツにおいても、後藤と西洋文明との出会いは、一層その屈折を強めることとなった。肯定的な面については、後藤は西洋文明の有効性・先進性・普遍性に強い感銘を受け、これをモデルとして再確認することとなった。特に後藤はドイツの衛生行政と、これを含めた社会政策の進歩に感銘を受け、これらの受容に没頭した。また後藤は三度国際会議に参加したが、そのたびに暖かく迎えられたことに感激しながらも、会議参加に充分積極的でない日本政府に対して憤慨せざるを得なかった。つまり後藤はそこに、西洋文明の普遍性による連帯が日本に対しても開かれていること、他方で日本が十分そこに加わり得ないでいることを痛感させられたのである。
そして後藤はこのような西洋文明を学び取ることに、ある程度の成果を上げた。後藤がともかくも医学博士の学位を受けることができたことが、これを証明している。
しかしながら、後藤は遂に西洋に溶け込むことはできなかった。当時の留学生仲間の一人である金杉英五郎は、後藤は「生来語学のタレントが不良」であって、「外人と交わることを嫌忌して、なるべく接近せざる事のみに努めていた」と回想している。ドイツ語を読むことはともかく、会話が下手なのは自他ともに認めるところだったらしい。またホームシックに罹って、米の飯が食いたい、梅干しが食いたいといったり、もう役人は辞めて帰国すると言いだしたりして周囲を困らせたことも少なくなかったらしい。
 西洋への屈折した思い
金杉はまた、次のようなエピソードを伝えている。
後藤はあるパーティーにおいて、主人の令嬢からダンスを申し込まれたが、「あんたは野蛮だ」と応じ、令嬢は憤慨激怒して一座は大騒ぎとなった。驚いた金杉は、「後藤は言葉が不自由であり、自分は野蛮の育ちであって貴女とダンスなどする柄ではないと言おうとしたが言い誤ったものである」と取り繕い、早々に辞去した。しかし、いくらドイツ語が下手であっても、後藤が自分とあなたを言い間違えるはずがない。後藤は、自分はダンスが野蛮であると確信してこれを断固として断っているのに、余計な事をしてくれたとかえって憤慨し、両社は数日間にわたって絶交するに至ったという。また、やはり留学生仲間であった岡田国太郎によれば、後藤はあるドイツ人に、日本は清国の保護国であろうと話しかけられた際、これを論破することも説明することもせず、いきなりステッキで一撃して遁走したという。
金杉や岡田は、このような後藤の行動は、彼の会話能力の欠如、奇行癖、負けず嫌いな性格などから出たものだとしているが、それだけではないだろう。後藤の頭の中では、西洋を評価しつつもこれを十分一体化し得ず、それゆえに生じざるを得ない劣等感であり、また、感状のレベルで西洋に反発しながらも、それを表現する手段を持たぬ自分自身へのもどかしさであった。
つまり、後藤がかつて医学を学ぶにあたって持った西洋文明との屈折した両義的関係は、ドイツ留学によって癒されたどころか、かえってその屈折の度合いを強めつつ、さらに西洋そのものと屈折した両義的関係へと転じていったのである。
 ドイツの社会政策
ドイツ留学が後藤の政治思想におよぼした影響は決して少ないものではない。後藤は、ドイツの社会政策にもっとっも関心を持った。後藤は留学以前からビスマルクの社会政策、とくに疾病保険、傷害保険、養老保険などに関心を持ち、これらをモデルとする立法に着手したことがあった。また「国家衛生原理」において国家を生命ある有機体と捉えていた後藤は、国家における統治がこの有機体にとっての「衛生」であるという思想に到達していた。現地でドイツの社会政策を目撃した後藤は、自らの二つの関心が一つのものとして実現されていると感じたであろう。ここに後藤のいう「生物学的」国家間は確かな現実性を帯びることとなった。
当時のドイツは、ビスマルクが宰相の地位から退けられた直後で、ビスマルク時代のヨーロッパ的性格を脱して、世界国家への歩みを開始しているころだった。
その中で後藤はビスマルクに強い印象を抱いた。遥か後年だが、後藤は「ビスマルク演説集」に序文を寄せ、次のように述べている。ビスマルクにとって国家とは「理論の産物にあらずして実勢力の結晶」であり、「過去現在及未来を串く連続的生命を有し、個性を有する一の有機体」であった。したがってビスマルクは国政を「其国家の伝来的性格に尊拠して之を指導」し、「世界の大上において勢いに顧みて宣を制」すべく努力した。皮相的観察をもってすれば、ビスマルクは「自己の見識及び意思を持って国家を経綸せむとした」様に見える。が実際には、ビスマルクは「個人意思よりもはるかに強力な勢力」すなわち「其国家の起源・変遷・隣邦との歴史的関係の如き事情に伴う自然的要素」の力を熟知し、ここから「自立的武断主義をとりながらも、協調外交を捨て」なかった。そしてこれこそビスマルクの真面目であったと後藤破断したのである。
後藤がビスマルクの国家観及び外交観をこのようにとらえたのは、恐らくこの留学中であっただろう。理論ではなく歴史(慣習)に沿った国際関係の調整という見方は、明らかに後藤が、勢力均衡という通常の見方ではなく、独自の「生物学の原則」によってビスマルクを、そして国際関係をとらえていたことを意味している。
このようにドイツ留学は、後藤の「生物学的」国家観を確固たるものとするとともに、これを国家の対外政策や国際関係にまで広げていったのである。




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