医学と衛生 ~衛生局時代~ |
衛生局長の長与は日本における衛生行政の創始者ともいうべき人物で、内務省衛生局の創設(明治8年)以来明治24年まで、実に16年にわたって局長の地位にあった。衛生という言葉自体、彼が考案したものだと言われているように、衛生という概念は、日本には新しいものであった。しかし、長与にせよ後藤にせよ、近代的な衛生の制度や政策を一気に強行しようという考えは全く持っていなかった。 後藤の衛生局時代、最初に手掛けた大仕事は、16年4月から6月にかけて行われた新潟・長野・群馬三県の衛生状態の視察であった。その際後藤は、あらかじめ詳細な質問表を作り、周到に準備を重ねた。その中には、医事衛生に関する事項はもとより、地理・尺度・物資・風俗などに及ぶ広範な事項が網羅されていた。 その理由について後藤は、「衛生という概念がなくても、人類が棲息する以上「衛生ノ道」は必ず存在する。それは人類の「本能ノ作用」である。然るに各国で風土が異なると衛生の「法度」もまた異なる。それゆえ海外の制度をそのまま移植するわけにはいかない。まず全国各地の衛生に関する事実を調査すること、そしてこれを理想に照らして利害を審査すること、これが今日衛生拡張の最善の手段である」と断じた。このような考えが、この詳細な調査事業の背景にあったのである。後藤はのちにも大規模な調査事業を行うことで知られたが、その最初がこの衛生局に入って間もない時期の衛生状態調査事業であった。文明を施すのに性急であってはならない。よく現地の実態を調査し、その現実に応じた手法を講じなければならないというのが、後藤の主張であった。
しかしそのような人間は自ら自律的秩序を形成することができない。そして自己保存から発した生存競争は、遂には自己保存を破壊するものとなりかねない。したがって、この争いを裁定して公共の秩序を作りだし、さらに各人の「生理的円満」を実現すべく、自然に働きかけて豊かな「需要品」を作り出すための共同行動を指導する存在が必要となる。ここに「主権者」ないし「治者」が登場することとなり、国家が成立することとなる。 こうして成立した国家はそれ自体の「生命」を有すると後藤は言う。それゆえ国家は当然その生命に基づく「生理的動機」を持ち、また目的としての「生理的円満」を持つ。しかも国家は、こうした経緯より「至高有機体」であり、人間は「人体的国家といえる集合体の分子」たる地位を与えられるに過ぎなくなるのである。 以上のような国家論を、後藤は「生物学」の基礎の上に立つものと称している。それは社会契約論、国家有機体論、社会進化論を混ぜ合わせたもので、特に独創的なものとは言えないかもしれない。しかしそこには後藤の医学・医療体験と、衛生局官僚としての立場が如実に反映されていた。生理的円満を求めながらその方法を知らぬ人間は患者であり、文明の何たるかを知らぬ無知な国民であった。これに対して国家理性の絶対的体現者として君臨する「主権者」ないし「治者」は医者であり、文明化の使命を担った明治国家の官僚であった。
ところでこれまで何度か言及してきた「文明」は、以上のような国家論の中で、どのような位置を与えられることになるのだろうか。それは何よりも、社会の秩序を維持し、生産性を高める「経綸」を支えるものであり、従って富強な国家を作り上げる役割を担うものとして理解されていた。世界を生存競争の場としてとらえ、国家を生命体とした後藤は、当然国家間の競争を予期していた。そしてそこにおける勝者を決定するものが、文明の程度であったのである。ここにもまた、明治国家の目指す方向が如実に反映されていたのである。 「国家衛生原理」にみられた以上のような「生物学的」国家観の中に、後藤が医学を学び、衛生行政に従事した体験がはっきりと刻まれていた。そこには、のちに後藤が抱くようになる政治思想の多くの部分が既に含まれていた。しかし例えば、それは国際関係には及んでおらず、また多くは抽象的であり、それが現実との接触の中でいかに広がり確立されていったか、なお検討していかねばならない。 |