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医学と衛生 ~名古屋へ~ |
経済的には、このポストはさほど魅力あるものではなかった。もっと条件の良い就職の話もあった。しかし、名古屋には前年12月より、恩人の安場が愛知県令として赴任していた。また、もう一人の恩人阿川も、8年7月東京に転じたのち、9年1月に名古屋に転任となっていた。 それ以上に重要だったことは、名古屋が大都市であって、勉学に適していたことである。後藤はその自叙伝に「小成二安スヘキニ非サレハトテ、大都二遊学ノ念小時モ止マズ」と述べている。 愛知県病院には付属の医学校が置かれ、そこではオーストラリアの医師ローレッツが教えており、また著名な医師であり翻訳家であった司馬凌海がいた。ちなみにローレッツは月給300円、司馬が250円を得ていた。 到着直後、8月30日の父宛の書簡で、後藤は「随分勉強も出来候様子に御座候。教師は独逸学ゆへ、小子も独逸学をいろはより学び初め候積りに御座候」と述べている。その目的もあって、10月後藤は司馬の家塾に入り、ここから病院に通うようになった。司馬は語学に卓越した才能を持ち、多くの翻訳を手掛けていたので、後藤はしばしばその口述を筆記することとなった。司馬の翻訳には、警視庁の依頼による衛生警察や裁判医学に関するものが少なくなかった。これが後藤の衛生行政への関心をはぐくんだといわれる。但し、後藤の司馬家での生活は、司馬が名古屋を去る10年4月まで続いたに過ぎなかった。病院勤務もあり、後述の試験の準備もあったので、後藤の「独逸学」が多いに進歩したとは考えられない。
後藤にとって重要だったのは、石黒の知遇を得たことだった。石黒は日本における軍医制度確立の最大の功労者の一人であった。制度創設者の常として、全国の人材に眼を光らせていた石黒は、弟子であった須賀川の院長や、名古屋鎮台の病院長から後藤のことを聞き、一度、名古屋で会食したこともあった。大阪でさらに後藤の才能を知った石黒は、後に彼の内務省入りの契機を作り、また日清戦争後には、その検疫事業の責任者に後藤を推薦するなど、何度も後藤を引きたてた。後年、後藤は地方の医師から中央の官僚となり、また陸軍と接近して植民地経営に乗り出した背景には、石黒の存在があったのだ。 その年の11月には、大阪の仕事は一段落したので、後藤は名古屋の鎮台病院の傭医となり、さらに11年3月、愛知県病院に戻った。その後の後藤の昇進は目覚ましく、12年12月に愛知県病院長兼医学校長代理、13年5月には同心得、14年10月には正式に愛知県病院長兼医学校長となった。24歳のことである。余りの若さに、後藤はしばしば代診と間違えられた。そのため、頬から顎にかけての虎髭を生やすようになったという。
病院長兼学校長時代、後藤は行政官としても有能であった。後年発揮される経営者能力が、最初に示されたのがこの時代であった。ローレッツが任期満了で13年5月名古屋を去ると、高級の外人医師を雇う代わりに、数名の学士を雇い、大幅な組織改革を行うなどして、愛知県病院及び医学校は面目を一新し、全国にその名を知られるようになったといわれる。その結果、明治15年5月の全国地方医学校を甲乙二種に分かち、甲種学校卒業生には直ちに開業免許を下付することとしたとき、愛知県医学校は無事甲種学校に選ばれた。 このように、後藤が経営者能力を発揮できたのは、ローレッツと安場という実力者がバックにあったことが大きいと思われる。後藤はのちにも実力者の強力な支持を得て手腕を振るうことが多かった。また、後藤の経営戦略の中心にあったのは、常に人材の登用と組織のスクラップ・アンド・ビルドであった。こうした特徴は、早くもこの名古屋時代に始まっていたのである。 しかし後藤は、愛知県病院及び医学校での成功に満足する人物ではなかった。病気の治療からさらに病気の予防、つまり衛生へと彼の関心は進んだ。そしてローレッツの意見を受け、「医治を要するの虞なからしむる」目的で書かれたのが、安場県令に提出された「健康警察医官ヲ設ク可キノ提言(明治11年10月)」であった。この建言書をさらに発展させ、後藤は12月「愛知県二於テ衛生警察ヲ設ケントスル概略」を著し、これをもって内務省衛生局長長与専斎に交渉することとなった。また後藤は、衛生の向上のため自治団体・愛衆者を結成し、さらに愛知・岐阜・三重三県の医学校統合を主張するなど、ますますその活動の範囲を広げていった。 当時内務省衛生局長の地位にあった長与専斎は、このような後藤の活動に大いに注目した。石黒も後藤は地方に置くのは惜しい男だと推薦した。こうして長与は後藤を衛生局に招き、後藤はこれを承諾した。長与に対してその決意を述べた明治15年3月7日付の書簡の中で、後藤は「良相良医●それ異ならんや」と述べている。すなわち自らの学んだ医学の知識をできるだけ多くの人におよぼすことが後藤の希望であった。それが後藤にとって文明のあるべき姿であり、「長英を以て期」す所以であったのである。 |