医学と衛生
 ~医学修行~
 


 二度目の遊学
明治6年5月、後藤に2度目の遊学の機会がやって来た。前年10月に転任となって福島県の須賀川にいた阿川が、後藤に医者になることを勧め、同地の医学校に進むならば若干の学資援助を提供しようといってきたのである。後藤は医者になることを好まなかった。医学は「長袖流の小枝」医者は「王侯貴人の封間」であると考えていたからである。確かに旧幕府時代の医者には、そういう男らしくないイメージが付きまとっていた。他方で阿川が後藤に医者になることを勧めたのは、後藤の激しすぎる気性を案じ、少しでも着実な道に進ませたいと考えたからであった。それは後藤の父の希望でもあった。他に勉学の機会も考えられなかったので、後藤は阿川の申し入れを受ける。
須賀川医学校は当時はさほど整備されておらず、原書による課程ではなく、訳書による課程が中心だった。やはり本格的に正則で学ぶべきだと考えた後藤は、正則に入る準備をするため福島小学第一校別科(福島洋学校)に学ぶこととした。のち、可能ならばさらに大学東校に進みたいという希望であった。明治6年5月下旬のことである。
ところが後藤は、福島洋学校になじむことができなかった。人材不足で教師の質に問題があったらしい。また、元来好きではない医学修業のための勉強というので、力が入らなかったということもあろう。それに後藤は、語学の様にコツコツと積み上げてゆくタイプの勉強があまり得意ではなかったようで、数学や測量に熱中し、余暇には「西国立志編」を愛読するという有様で、肝心な英語の勉強を放り出し、挙句の果てに僅か半年で洋学校を中退、帰郷してしまった。明治7年1月のことである。
 尻に火が付く感じで猛勉強
しかし、父と阿川に激しく叱責され、説得されて、後藤はともかく須賀川の医学校に転じて変則医学の学習に着手することとした。明治7年2月のことである。後藤はここで、物理学、化学、解剖学、生理学等の近代諸科学に出会い、強い関心を覚えて猛然と勉強し始めた。阿川から貰う僅かの学資以外には家からの仕送りもほとんどなく、生活は極度に貧しかったが、それは物の数ではなかった。
いったん興味を覚えると、頭角を現すのは早かった。明治8年7月、後藤は寄宿舎の副舎長に、9年3月には舎長に任ぜられた。生徒の中には、すでに独立した開業医で知識を身につけるために学ぶ者が少なくなかった。彼らをよく取り締まることができたということは、後藤の学力・人望が並々ならぬものだったからであろう。
このように、後藤は西洋文明に強い憧れを持ちながら、それを学ぶために何度も挫折を繰り返し、長い廻り道を歩まねばならなかった。しかも最後に到達したのは「変則の医学であって、結局後藤は西洋文明を本格的に基礎から身につけることができなかったのである。後年の後藤の行動のいくつかは、以上のような西洋文明との屈折した出会いと関係しているように思われる。
 エリートへのコンプレックス
後藤は、正規の教育システムに学んだ若いエリートに対してしばしば反発を覚えた。後藤が東京帝国大学をさして「片輪者養成所」と呼び、特にその法学部教育のあり方を「皮膚なる法学通論派」と呼んで批判したことがある。甥にあたる椎名悦三郎(のちの自民党副総裁)が、大正12年東京帝国大学法学部を卒業して農商務省に入ろうとした時も、そんな教育は何の役にも立たないから、役所には2,3年待ってもらってしばらく自然科学方面の勉強をして来いと言って、椎名を困らせたという。
しかし他方で、後藤は大胆な人材登用で知られたが、登用された者の大部分は帝大卒業生、特に法学部卒業生であった。また彼が児玉源太郎を記念して植民政策の講座を寄付しようとしたとき、その大学はやはり東京帝国大学法学部であった。一見したところ、矛盾したこのような態度は、やはり屈折のもたらした劣等感の所山であった。
また後藤が、植民政策や対外政策において、西洋諸国の行動様式を承認し、基本的にこれに習うよう主張しつつも、日本及びアジアの独自性を提起しようとしたことにも、その表れが見られるといってよい。それは、西洋文明の受容からそのまま西洋列強との協調を主張することへ進んだ若い世代の官僚たちと異なっており、他方で、西洋列強の行動様式を「覇道」として排斥し、これに対してアジアの「王道」を対置しようとした多くのアジア主義者たちとも異なるものであった。






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