医学と衛生 ~医学修行~ |
須賀川医学校は当時はさほど整備されておらず、原書による課程ではなく、訳書による課程が中心だった。やはり本格的に正則で学ぶべきだと考えた後藤は、正則に入る準備をするため福島小学第一校別科(福島洋学校)に学ぶこととした。のち、可能ならばさらに大学東校に進みたいという希望であった。明治6年5月下旬のことである。 ところが後藤は、福島洋学校になじむことができなかった。人材不足で教師の質に問題があったらしい。また、元来好きではない医学修業のための勉強というので、力が入らなかったということもあろう。それに後藤は、語学の様にコツコツと積み上げてゆくタイプの勉強があまり得意ではなかったようで、数学や測量に熱中し、余暇には「西国立志編」を愛読するという有様で、肝心な英語の勉強を放り出し、挙句の果てに僅か半年で洋学校を中退、帰郷してしまった。明治7年1月のことである。
いったん興味を覚えると、頭角を現すのは早かった。明治8年7月、後藤は寄宿舎の副舎長に、9年3月には舎長に任ぜられた。生徒の中には、すでに独立した開業医で知識を身につけるために学ぶ者が少なくなかった。彼らをよく取り締まることができたということは、後藤の学力・人望が並々ならぬものだったからであろう。 このように、後藤は西洋文明に強い憧れを持ちながら、それを学ぶために何度も挫折を繰り返し、長い廻り道を歩まねばならなかった。しかも最後に到達したのは「変則の医学であって、結局後藤は西洋文明を本格的に基礎から身につけることができなかったのである。後年の後藤の行動のいくつかは、以上のような西洋文明との屈折した出会いと関係しているように思われる。
しかし他方で、後藤は大胆な人材登用で知られたが、登用された者の大部分は帝大卒業生、特に法学部卒業生であった。また彼が児玉源太郎を記念して植民政策の講座を寄付しようとしたとき、その大学はやはり東京帝国大学法学部であった。一見したところ、矛盾したこのような態度は、やはり屈折のもたらした劣等感の所山であった。 また後藤が、植民政策や対外政策において、西洋諸国の行動様式を承認し、基本的にこれに習うよう主張しつつも、日本及びアジアの独自性を提起しようとしたことにも、その表れが見られるといってよい。それは、西洋文明の受容からそのまま西洋列強との協調を主張することへ進んだ若い世代の官僚たちと異なっており、他方で、西洋列強の行動様式を「覇道」として排斥し、これに対してアジアの「王道」を対置しようとした多くのアジア主義者たちとも異なるものであった。 |