医学と衛生
 ~おいたち~
 


 留守家の家臣の子
後藤新平は、安政4年(1857)6月4日陸中国胆沢郡塩釜村(現在の岩手県水沢市)に、留守家の家中の後藤実崇の子として生まれた。留守氏はもと伊沢氏といい、奥州藤原氏滅亡後、源頼朝が東北経営のために設置した留守職に任ぜられ、以来この職名を名乗って留守氏と称するようになる名門であった。しかし戦国末期には独立を失い、やむなく伊達政宗の臣下に入り、2万石を与えられ、寛永6年(1629)水沢城に移って二百余年この地を治めていた。このような歴史から、留守氏は伊達藩の中でも最も格式の高い家の一つであり、独立の大名ではなかったが、これに匹敵する組織と誇りを持っていた。
留守氏はもともと18万石程度あったものを削減されていたため、禄高に比して多くの家臣を抱えていた。そのため人材の多い一方で、甚だ貧しかった。過去の栄光と没落、辺境、貧困。こういった条件が人材を生み出しやすい面もある。僅か2万石の東北の小藩が、幕末期に高野長英や箕作省吾(地理学者)、明治以降は後藤新平や斎藤実(総理大臣)を生み出したのは、このような条件と決して無縁ではない。
後藤家の禄高は3貫余り。米にして10~15石であったというから、決して裕福ではなかったが、それでも留守家中では上から数えて四分の一程度のところにあったというから、留守家全体がいかに貧しかったか想像できる。家柄においては、新平の父は小姓頭、祖父は目付を務めたから、上から数えて5~20程度であった。家中では上の下ないし中の上というところだろう。父実崇は気骨あり学問ある人物で、明治になって帰農して平民となり、明治16年63歳で没している。母の利恵は留守家の侍医筆頭である坂野家の長女として生まれ、積極的で実際的な性格であり、大正12年に99歳で没するまで、新平の生涯の大部分を同居して目撃することとなった。
 一族に高野長英
一族で有名なのは高野長英である。高野は後藤の本家の出で、後藤の祖父とは又従姉妹であった。高野が没したのは嘉永3年(1850)、後藤の生まれる7年前であったが、水沢におけるその記憶はなお生々しかった。幼少期の後藤を可愛がってくれた祖父は、高野事件のため目付役を退いた人物であった。また、高野に最初漢学を教えた坂野長安は後藤の外祖父、つまり母の父であった。その縁で、高野の母は高野の没後、坂野の家に出入りして何かと世話になることが多かった。
後藤は少年時代「謀反人の子!」と嘲笑され、初めて高野との関係を知ったと言われている。確かに高野の名は、幕末期には不吉であった。祖父は繰り返しその轍を踏んではならぬと諭した。
しかし、維新後は先覚者を意味する誇らしい名に変わった。朝敵の汚名を着せられ、経済的にも苦境にあった辺境の少年にとって、維新の先覚者とのつながりは一筋の光明であった。高野を親戚に持ったことにより、後藤の天下国家への関心や西洋文明への関心は、一段と強烈なものとなったのである。
少年時代の後藤は、才気活発であると同時に、手の付けられぬ腕白な餓鬼大将であったらしい。後藤は慶応3年(1867)2月、9歳の時に奥小姓となっているが、後にその頃を回顧して、「君側ヲ憚ラズ挙動粗暴ヲ免エズ。度々主君ノ譴責ヲ蒙ル」と述べているから、そのいたずらも相当なものだっただろう。
ところが、間もなく彼の身の上に大きな変化が起こる。即ち明治元年、仙台藩は奥羽越列藩同盟に参加して、戊辰戦争に敗北し、62万石から28万石へ減封されてしまう。これに伴い留守家の家臣は、士族の地位を保って北海道に移住するか、郷里に留まって帰農するかいずれかを選択しなくてはならなかった。後藤家は留まって帰農することを望んだ。明治2年2月、後藤が11歳の事である。後藤はのちに、少年時代これほど辛いことはなかったと述べている。
だがこのことは、かえって後藤には幸福だったかもしれない。明治2年8月、胆沢には胆沢県が置かれ、ここに赴任してきた新政府の官僚にその才能を見出されることになったからである。多く西南からやってきた彼らは、言葉さえもほとんど通じない東北の地を治めるため、住民の子弟で優秀なものを給仕として採用したのであるが、後藤も選ばれたのである。中でも後藤の才能に着目したのが、大参事安場一平であった。安場は肥後隈本藩士で横井小楠の弟子、貴族院議員、男爵、北海道庁長官となった人物である。明治16年には後藤は安場の次女カツと結婚している。
 屈辱の上京
安場は後藤を部下の岡田俊三郎に預けた。岡田は伊勢の出身で、安井息軒に学んだ人であり、後藤に大きな影響を与えることになる。
明治3年10月、安場は熊本県大参事試補として熊本へ転勤となった。これによって後藤はその向学心、向上心をかきたてられ、何とか上京したいものだと考えるようになった。ところが安場のあとに大参事となっていた嘉悦氏房が、翌明治4年2月公用、上京することになった。後藤は父と阿川に頼み込み、嘉悦に従って上京することとなった。東京では、嘉悦の口添えで時の太政官少史・荘村省三の家に書生兼玄関番として住み込むこととなった。
しかし、荘村の多忙と無理解、そして後藤の貧困のため、この状況は全く成果を生まなかった。この間の後藤については、飯炊きを命ぜられたことに腹を立て、わざと半煮えに炊いて抗議したとか、「朝敵の子」と言われて憤り、王政維新の今日「朝敵」とは何事だと荘村に食ってかかったなどというエピソードがある。しかしこれらは、後藤の自己表現能力がいかに乏しかったかを物語っているに過ぎない。後藤は晩年に至るまでかなり強い東北なまりが残っていたし、論理的に秩序ある話をする事が苦手だった。まして状況の当時は13歳、感じ意外にはさしたる学問もなかった。穏やかに自分の意思や希望を伝えることができるはずもなかったのである。
後藤は惨めな思いを抱いて、空しく帰郷する。上京してから1年足らず、明治5年1月の事であった。上京以前、後藤は1歳年下の斎藤実らとともに水沢の三秀才と言われていた。後藤はその先頭を切って上京したにもかかわらず、他の二人も郷里を出ており、後藤一人がのこされた形となったのである。




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