江戸城の構造
1.天守
 ~家光の天守~
 


 巨大な寛永天守
2代将軍秀忠が建造した元和天守の完成からわずか15年後の寛永14年(1637)、3代将軍家光は寛永天守の造営を始める。元和天守を取り壊して天守を新築した理由は定かではないが、3代目を世襲した家光が自身の権威を印象付け、徳川将軍家の盤石の地位を目に見える形で示す意図があったのではないか。この頃の江戸城天守は、城そのものというよりは、将軍の象徴だったのかもしれない。また、祖父・家康を心から尊敬していた家光は、慶長天守を壊して元和天守を新造した父・秀忠を快く思わず、同じことを仕返ししたのではないかとも言われている。
広島大学大学院の三浦正幸教授によれば、寛永天守は五重五階地下一階。実質的には6階建てと同じである。棟までの高さは約45ⅿ、天守台は約14ⅿ、合計すると高さは約59ⅿとなり、現在のビルでは15階建て程度に相当する。さらに、本丸の標高は約20~21ⅿなので、江戸城下町から見上げれば80ⅿ近くに及ぶ。現存する姫路城天守ですら、高さは46.35ⅿ、彦根城天守は約20ⅿ、その差が歴然としている。パリの凱旋門は49.5ⅿ、自由の女神が48ⅿなので、寛永天守がいかに大きかったかが伺えよう。
 銅板張り
寛永天守は、白く輝く元和天守とは異なり、内法長押より下部の外壁は銅板張りで、屋根は銅瓦葺、それらが黒く彩色された真黒な天守だったようだ。江戸城天守というと真っ白な天守のイメージがあるが、テレビドラマの影響があるのではないか。信長が築いた安土城、秀吉が築いた豊臣大坂城、松本城天守、岡山城天守、広島城天守なども黒壁だが、これらは黒漆によるもの。三浦教授によれば、寛永天守の外壁は黒漆塗りではなく松脂と荏胡麻油を調合し、松煙を混ぜて練った「チャン」と呼ばれる黒色塗料を錆止めとして塗った銅板が張られていたらしい。黒漆と比較すると安価で、熱や紫外線に強い特性がある。
真黒な天守というと地味な印象があるが、江戸時代において銅は超高級素材で、銅板を建物の一面に貼り付けるなど庶民のなせる業ではなかった。江戸幕府の財力と権力の誇示に、これ以上ない効力を発揮したと思われる。
実用面でも、銅には意味がある。黒漆は大洋に晒されると1年も持たず劣化してしまい、恒久的な建造物の外壁に用いるのに現実的ではない。黒漆が限られた時代にしか採用されていないのはそのためである。徳川家の城で一般的に使用されている白漆喰は風雨で傷みやすいため、格段に耐久性を高めるべく銅板が採用されたと考えられる。
 屋根
屋根は、全て木芯に銅板を貼った銅瓦で覆われた。通常の瓦は100年もすれば割れてしまうが、銅瓦は軽量化がはがれ200~300年と耐久性が飛躍的に高まる。江戸幕府繁栄の証、つまり天下泰平のシンボルであった天守である。300年も健在することを前提にしていたのかもしれない。
屋根の銅板は、全て青銅である。青銅は褐色だが、10~15年ほど経つと緑青というくすんだ緑色の錆が生成される。錆と言っても保護膜となって耐久性が高まるので、天守には望ましいことである。同時に風合いも増していくので、古来から寺社仏閣で使われてきた青銅が、伝統建築としての重厚感を演出していたことは想像に難くない。寛永天守の屋根は、完成時は赤褐色のような屋根で、しばらくすると現在の名古屋城天守と同じような緑色になっていったと考えられる。



TOPページへ BACKします