江戸城の構造 1.天守 ~家康・秀忠の天守~ |
慶長天守の外観は簡素で清楚だったらしい。「慶長見聞集」によれば、黒漆が塗られた黒壁の豊臣大坂城に対し、慶長天守は姫路城大天守と同じく、漆喰が塗りこめられた白壁。屋根には木枠で型を作り鉛板を貼った銀色に輝く鉛瓦が葺かれ、雪に覆われた富士山のように白く輝いていたようだ。中井家の文書によれば、家康も天守の出来栄えに満足していたようだ。西国大名が御影石を運んだ記述もあるが、天守台の色はわかっていない。 造営を命じられた大工頭は、関ケ原合戦後に作事方として家康に仕え活躍した中居正清である。父は法隆寺の番匠(宮大工)だった中居正吉で、秀吉の元で大坂城の築城や方広寺大仏殿造営の大工棟梁を務めた人物である。織田信長の安土城天守造営にもかかわったようだ。 中井正清は、安土桃山時代を代表する大工頭で、後に日光東照宮造営も務めることになる。「中井家文書」によれば、駿府城や名古屋城の天守をはじめ、二条城、江戸の町割り、増上寺、久能山東照宮など、徳川家ゆかりの重要な建築を担当した。 家康が江戸城に継いで建造した駿府城天守、名古屋城天守はいずれも大坂城天守を凌駕するものであった。これは徳川家が豊臣家に対する絶対的優位性を誇示するものであり、特に名古屋城天守からは大きさだけに重点が置かれ、内部の絵画や屋敷飾りを省略した簡素な意匠に変更して外観を見せる建築となった。
元和天守に関する図面や記録は残っておらず、大きさや形はわかっていない。大工頭は、慶長天守と同じく中居正清。中井家に伝わる指図「江戸御天守Ⅰ」には妻側半分の構造が描かれており、この時期の天守の構造を知ることができるが、慶長期と元和期のどちらに描かれたか、図案なのか完成図なのかも判明していない。 この指図に関連すると思われる「江戸城御天守Ⅱ」は最上階及び4層目の妻面の立体図で、天守の装飾を知ることができる。妻側には格式の高い唐破風が描かれ、すっきりとしつつも表情豊かな装飾で壁面が彩られていたことがわかる。上層部のみしか描かれていないが、江戸城天守が規則的に逓減して積み上げられた層塔型であったことが読み取れる。 元和9年7月27日、子の家光が将軍宣下を受けて3代将軍となる。秀忠は将軍職を譲る8月4日に西の丸に移し、本丸大改築の竣工を待った。 |