江戸城の構造 1.天守 ~権威の象徴である天守~ |
そのため、信長以前の城には基本的には天守はない。上杉謙信の居城・春日山城や武田信玄の居城・躑躅ヶ崎館、毛利元就の居城吉田郡山城、北条氏康の居城小田原城も天守らしき建造物はおろか、それを支える天守台すら見当たらないはずである。これは天守が残っていないのではなく、はじめから存在しないのである。(北条小田原城と現存する小田原城はそもそも本丸の場所が違い、事実上別個のものと位置付けられる)
では、何のために天守はあったのか。その威容により大名や領民に権威を見せつけ、威嚇するためである。天守はいわばシンボルタワー、極論すれば、使い勝手そのものより、見栄えに意味があった。 もちろん、軍事施設のひとつであり、戦闘を強く意識した天守もある。しかし,実戦的な天守であっても、象徴としての側面は必ず持っていたのである。 江戸幕府の本城である江戸城の天守は、徳川将軍家の権力と財力の象徴以外のなにものでもない。したがって江戸城の天守には、籠城戦を意識した姫路城天守や松江城天守のような軍事装置はなく、シンボルタワーとしての存在感が何より重要視されたといえる。
3代目の家光が築いた天守は巨大で、現存していれば現存最大の姫路城を遥かに凌ぐ日本最大の天守だったようだ。明暦の大火で破壊した後、保科正之の方針で以後天守閣は築かれなくなり、江戸城の天守の歴史はせいぜい50年弱程度であった。次項からはその家康、秀忠、家光がそれぞれに築いた天守の特徴と再建を繰り返した理由などを探っていく。 |