江戸城の構造
1.天守
 ~権威の象徴である天守~
 


 織田信長よる天守の権威づけ
日本に天守を誕生させたのは織田信長と言われている。厳密に言うと信長以前に、松永弾正久秀が居城であった大和国の多聞山城に築いたのが始まりのようであるが、天守=城というイメージを作り上げ、権威の象徴的に位置づけたのは信長からである。居城であった岐阜城、安土城にも天守があり、「兼見卿記」には明智光秀が元亀3年(1572)に築いた坂本城に、「細川両家記」には有岡城にも存在したという記述があり、信長配下の武将も天守を築き始めていたようだ。いずれにしても信長により天守を絶対的存在として位置付けられ、今日ある天守は信長によって生まれ、城の必需品となったといえる。
そのため、信長以前の城には基本的には天守はない。上杉謙信の居城・春日山城や武田信玄の居城・躑躅ヶ崎館、毛利元就の居城吉田郡山城、北条氏康の居城小田原城も天守らしき建造物はおろか、それを支える天守台すら見当たらないはずである。これは天守が残っていないのではなく、はじめから存在しないのである。(北条小田原城と現存する小田原城はそもそも本丸の場所が違い、事実上別個のものと位置付けられる)
 権威の象徴としての天守
天守というと、城主が日々を過ごし、最上階から城下を見下ろしていたような印象があるが、原則として天守に人が住むことはない。天守の生活の場を設けたのは、信長唯一人だったようだ。
では、何のために天守はあったのか。その威容により大名や領民に権威を見せつけ、威嚇するためである。天守はいわばシンボルタワー、極論すれば、使い勝手そのものより、見栄えに意味があった。
もちろん、軍事施設のひとつであり、戦闘を強く意識した天守もある。しかし,実戦的な天守であっても、象徴としての側面は必ず持っていたのである。
江戸幕府の本城である江戸城の天守は、徳川将軍家の権力と財力の象徴以外のなにものでもない。したがって江戸城の天守には、籠城戦を意識した姫路城天守や松江城天守のような軍事装置はなく、シンボルタワーとしての存在感が何より重要視されたといえる。
 江戸城天守の時代
江戸城の天守は、3回建設されている。最初に築かれたのが、初代将軍家康が慶長12年(1607)にあげた初代天守(慶長天守)である。それまで最大だった豊臣大坂城の天守を凌駕する、まさに政権交代を知らしめる天守だったと言われている。その天守を、二代将軍秀忠が破却して立て直す。これが元和9年(1623)に建てられた2代目天守(元和天守)である。そしてさらに、秀忠の作った元和天守を、3代将軍家光が破却して建て替える。これが、寛永15年(1638)に完成した3代目天守(寛永天守)である。
3代目の家光が築いた天守は巨大で、現存していれば現存最大の姫路城を遥かに凌ぐ日本最大の天守だったようだ。明暦の大火で破壊した後、保科正之の方針で以後天守閣は築かれなくなり、江戸城の天守の歴史はせいぜい50年弱程度であった。次項からはその家康、秀忠、家光がそれぞれに築いた天守の特徴と再建を繰り返した理由などを探っていく。






TOPページへ BACKします