江戸での活躍
 ~江戸詰~
 


 人脈を広げる
西郷は、斉彬の養女篤姫の縁組に奔走する前後、たくさんの一流の人物と出会っている。安政3年(1856)5月1日には武田耕運斎に会って水戸の情勢を聞き、7月9日には斉彬の密書を徳川斉昭に届けた。
翌4年には慶喜擁立の為に江戸―京都間を往復した。また4月3日には参勤交代によって斉彬が帰藩することになり西郷もお供したが、途中京都に寄っている。京都では近衛家(篤姫を養女としたため、島津家と姻戚関係)の家臣や近衛家に出入りしていた清水寺成就院の僧侶・月照と知り合った。また梁川星厳・頼三樹三郎・梅田雲浜とも親交を結んでいる。江戸行きの時は無名だった西郷も、帰藩時には斉彬が最も信頼する家臣の一人になっていた。
同月24日、西郷は3年4か月ぶりに鹿児島に帰って来た。
 江戸詰を命じられる
西郷が久々に一家だんらんを楽しんでいる時、非報が届いた。6月17日、斉彬のよき理解者であり支援者であった老中・阿部正弘が病死したのである。39歳の若さであった。この非報が西郷の人生を大きく変える事になる。
阿部は斉彬が藩主となる際に尽力し、慶喜擁立派の大きな後ろ盾であった。阿部の死によってお由羅(久光)派は息を吹き返し、幕府内では保守的な慶福(家茂)派が活気づいていた。
斉彬は一刻も早く南紀派の動きを封じ、慶喜を将軍にしたかったが江戸へ行く事はできない。そこで考え付いたのが、西郷の江戸詰である。
10月1日、西郷は徒目付、島預兼庭方となり江戸詰を命じられた。11月1日、西郷は大久保利通と鹿児島を出発し、熊本で長岡監物に会う。監物は西郷の依頼で尾張藩の家老・田宮如雲へ紹介状を書いているが、その中で「とても忠実な人物で、天下の形勢を良く見渡している」と評している。2年前に橋本左内から「燕趙悲歌の士」と言われた西郷が人間的に大きく成長していたのがわかる。この時、大久保は徒目付として初めて薩摩藩の外に出たが、同行したのは熊本までであった。
同12日には下関の豪商・白石正一郎宅に一泊した。白石は長州藩の支藩・清末藩の御用商人。若い頃から国学者・鈴木重胤に学んだ筋金入りの勤皇家で、高杉晋作、久坂玄瑞、平野国臣、真木和泉ら約400人の志士と交流があった。この時、白石から薩摩特産の藍玉を長州に輸入したいとの話があり、西郷はその商談の手配を行っている。




TOPページへ BACKします