江戸での活躍 ~二人の「師匠」~ |
西郷は樺山三円に連れられて東湖を訪ねたが、その激しい攘夷論を聞き感銘を受けた。また、この尊攘派の精神的指導者から「丈夫(立派な男)」と呼ばれ感激している。さらに東湖は西郷の事を「他日我が志を継ぐ者は独り此の少年漢のみ(今後私の志を継承するのはこの青年のみである)」と評し、絶賛した。 西郷は東湖や水戸藩士・桜任蔵を通じて諸藩の志士と知り合い、水戸藩士・原田八兵衛、肥後藩士・津田山三郎、柳川藩士・池辺藤左衛門らと月2回の例会を開くようになった。越前藩の儒学者・矢島錦助宅で開かれたこの例会では、攘夷について議論され、西郷は水戸の尊王攘夷論に傾倒し、もし斉昭が攘夷を実行するなら、自分は真っ先に駆け付け、命を懸けて戦うと誓ったという。 しかし、東湖は志半ばにして他界してしまう。安政2年(1855)に安政の大地震があり、年老いた母を助けようとして家屋の下敷きとなり圧死した。東湖に心酔していた西郷は大きなショックを受け、悲しみに暮れた。
橋本も最初の西郷の印象は、「燕趙悲歌の士なり」と評している。これは褒め言葉ではない。中国の戦国時代に、燕や趙という国があったが、時勢に憤慨する人物が多かった。これを唐の韓退之が「燕趙悲歌の士多し」と書いたのが元で、いたずらに悲憤慷慨する人物という意味である。 攘夷論に共感していた西郷にとって、橋本の唱える開国論は理解しがたいものだった。全く会話が食い違ってしまい、お互いにこのような第一印象になってしまったのだろう。しかし、西郷の敬愛する斉彬は開明的な人物である。徐々に橋本の進んだ考えを理解しちったことだろう。さらにこの後の将軍継嗣問題では、2人とも藩主の命を受け、命がけの周旋を行った。このような中でお互いに相手の非凡さを認めあい、心底信頼し合う無二の同志になっていった。 |