江戸城の歴史
 ~江戸城とは~
 


江戸城は、かつて徳川将軍家400万石15代の居城であり、日本最大の近世城郭であった。その城址の範囲は、城下町を含めると、現在の東京都千代田区・中央区他を城域とする広大なものである。もともと秩父平氏の江戸氏が武士の館を築いたことに始まり、その後、太田道灌が中世城郭を築いた。その後、小田原北条氏の支配を経て城は若干手を加えたと思われるが、実質的に現在の形になったのは徳川氏の関東入府後、関ケ原の合戦勝利による天下の覇権を握り、江戸幕府を樹立した後である。
徳川家は、空前絶後の巨大近世城郭を築き、幕藩体制の中枢機関として君臨する。明治維新後は、東京城、皇城、宮城、そして皇居となった。ある意味では、現在も天皇家が居城とするわが国唯一の現役の城ともいえる。
「江戸」という地名の語源については、日比谷入り江に突き出た台地(今の本丸あたり)をアイヌ語の「エト(鼻)」の形に例えたという説。あるいは江戸は「江の戸」であり(大きな川、河)の入り江(川口)河口に臨む繁栄した湊のことで、家康の江戸入城以前から、江戸の地理的に重要な地域であったことを裏付けるものであるとする説などがある。
江戸の地は歴史的に見ると、巨視的には近畿地方の勢力(弥生文化圏)と蝦夷勢力(縄文文化圏)の境界線である旧利根川の最南端の地に栄えた湊町であり、微視的には南の品川(太平洋の海運)と東の浅草(利根川・常陸川水系)を結ぶ、関東水運の中心地でもあった。
江戸には鎌倉や小田原より優れた舟入りがあったこと、その位置が関東のほぼ中心であったこと、街道や都市計画に将来性があったことなどから、小田原征伐(1590)後、豊臣秀吉の意向もあったが、家康が必然的に新しい支配地の本拠地を江戸に定めることになった可能性があるといわれる。




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