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江戸城の外郭を巡る 2、市ヶ谷門~赤坂門 |
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~このコースの主な概要~
JR市ヶ谷駅前に市ヶ谷門跡(市ヶ谷見附)の石垣が残る。そこから外濠沿いに歩いていくと、外濠公園に差し掛かる。そこを通り抜けていくと、四ツ谷駅に差し掛かる。四ツ谷門跡にもはっきりと石垣が残っている。
四ツ谷からまた外濠沿いに歩くと、現在はテニスコートや野球場となっている真田濠がうかがえる。そこから紀尾井坂を下り、弁慶濠に。もう赤坂の交差点は目の前だ。この交差点付近が、かつての赤坂見附の跡となる。
市ヶ谷橋門跡 JR市ヶ谷駅前の改札前が、市ヶ谷門の枡形虎口があった場所である。交番付近に5.6個ある巨石は、市ヶ谷門の石垣の片鱗。枡形はもう消えてしまったが、市ヶ谷橋を渡った釣堀側に土橋の土台部分の石垣が良く残り、刻印が多いのが特徴。唐突に出現するこの釣り堀は、当然ながら外濠の一角を利用したものである。寛永13年に市ヶ谷門を担当したのは美作津山藩主の森長継である。
牛込~市ヶ谷土橋間の外濠は幅100~120ⅿである。
なお、東京メトロ市ヶ谷駅の、南北線構内には、江戸歴史散歩コーナーがあり、石垣が残っている。写真なし 外濠公園 市ヶ谷門から四谷方面にかけては、外濠が徐々に先細りになり、今は完全に埋め立てられてしまった。
埋め立て地は現在千代田区立外濠公園となり、野球場やテニスコートになっている。一部の土塁上を歩くことができ、城ファンにはうれしい散策路となっている。四ツ谷門跡 JR四ツ谷駅のすぐ横が、四ツ谷門跡である。橋を渡ったところに寛永13年に長門萩藩主毛利秀就が築いた枡形北側の石垣が残る。濠普請は上杉定勝と佐竹義隆。慶長16年に渡櫓等が建造され、四ツ谷門が完成した。石垣と道路を隔てたJR四ツ谷駅舎に東西棟方向の櫓門があり、高麗門は、北寄りの鉄橋を渡ったところにあった。本来の外濠は、JR四ツ谷門を含む外濠公園の一帯。高台にある四ツ谷門跡から見てもかなりの高低差が確認でき、外濠の規模の大きさがわかる。
四谷は甲州街道につながる要衝で、江戸五口の一つである。玉川上水の分岐点でもあり江戸の都市機能の集中地点と言える。そのため門の濠外側には寺町が形成されていた。
四ツ谷門は防衛の要としての機能もあり、門は内枡形で、内寸は約30ⅿ、石垣の高さは約4.5ⅿ~5.4ⅿであった。
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真田濠 現在の上智大学校舎は、尾張徳川家の中屋敷跡である。上智大学のグラウンドは外濠の埋め立て地で、大規模な土塁に囲まれている。丸ノ内線四ツ谷駅のホームから見るとよく分かる。
真田家が掘ったことからこのあたりは「真田濠」とも呼ばれる。上幅120ⅿ、深さは四谷側で約18ⅿ、喰違土橋側で約15ⅿ。![]()
漆喰門・弁慶濠付近 喰違門内は現在ホテルニューオータニえ、井伊家の林泉回遊式庭園を有している。このあたりの住所は千代田区紀尾井町。この地名は、紀伊徳川家の上屋敷、尾張徳川家の中屋敷、彦根藩井伊家の中屋敷があったこのに由来する。
喰違門は讃岐藩主生駒高俊が築き、江戸城の主要の門が枡形なのに対し、通路を折り曲げて喰い違えることによって防御的な空間を作り出していたことからその名がつけられた。赤坂門・赤坂見附付近 赤坂見附交差点付近にあったのが赤坂門である。弁慶濠と赤坂溜池の境に設けられた門で、大山道の起点でもあった。高麗門から枡形へ入り右折して、渡櫓門を置く内枡形門で、土橋がかかる構造であった。
枡形石垣は寛永13年に筑前福岡藩主黒田忠之により築かれ、外濠沿いに一部残る。昼夜を問わず車が激しく行きかう場所だが、当時も交通の要衝であり、江戸城においてここがいかに重要な場所だったかがうかがえる。
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