江戸城の外郭を巡る 1、筋違橋門~牛込門 |
→→→→→→→→ ~このコースの主な概要~
スタートは秋葉原駅でもよいが、混雑が激しい場所なので、むしろ丸ノ内線(地下鉄)の淡路町から始めたほうが良い。
淡路町から歩いて10分程度で昌平橋に差し掛かる。近くには柳森神社などもあるが、ここではスルー。
そこから坂を上り、神田明神と湯島聖堂に足を伸ばそう。ここは間接的に江戸城と関わり合いがある重要なポイント。お茶の水界隈でニコライ堂は全く江戸城と関係ないが、流石にここは必見。そしてお茶の水から順天堂大学付近に差し掛かり、水道歴史館へ。江戸・東京の水の歴史がここでわかる。水は年の発展に欠かせないので必見。
水道橋付近は東京ドームなどがあって雑然としているので、さらっと通過したい。小石川後楽園には立ち寄らず、そのまま飯田橋へ。ここで初めて「城跡」らしい牛込見附の石垣跡が見学できる。
筋違橋門(万世橋) 筋違橋は、防衛上の理由で斜めに架けられたという。相次ぐ地震や火災対策として、文化年間頃(19世紀初頭)から江戸幕府が災害時非難の為に神田川に架橋したのが新橋と和泉橋。これにより外神田・浅草地区と内神田・日本橋地区が結ばれた。
旧交通博物館の赤煉瓦前に立つ案内板のあたりが、筋違橋門と筋違橋のあった場所である。筋違橋門は板橋宿を経て中山道へ通じる要所で、前田利常により築かれた桝形門であった。将軍が上野寛永寺へ参詣するときや、日光へ出向く際の御成り道の出入り口だったことから御成門とも呼ばれたという。
明治時代に取り壊された筋違橋門の石垣を再利用して、アーチ橋が作られたのが現在の万世橋。昭和5年(1930)に再築された。
なお、秋葉原の電気街は、戦後にラジオ部品を扱う闇市や露店が流行ったことが発祥である。神田明神 神田明神は、江戸の総鎮守である。正式名称は神田神社で、江戸108カ所の総氏神である。創建は天平2年(730)で、祭神は大国主明。大手門前の将門塚付近に存在したが、江戸城拡張に伴い慶長8年(1603)に神田台へ移り、元和2年(1616)に現在地に移動された。
日本三大祭として現在でも行われている神田祭は、江戸時代には日枝神社の山王祭と隔年で行われた江戸を代表するお祭り。江戸幕府の庇護を受け、田安門から江戸城内・吹上に祭礼行列が練り込み、将軍の拝礼を受け、竹橋門へ抜け大手門前の将門塚で神事を行い、常盤橋門へ出て練り歩いた。将軍や御台所の上覧があったことから、江戸の庶民たちからはいつしか天下祭と称された。湯島聖堂 昌平坂学問所は幕府直轄の教育機関であり、幕府儒者であった林家が寛永7年(1630)上野忍ケ丘に建てた家塾が前身である。将軍綱吉の時代、湯島昌平坂に移転し、それに伴って建立された孔子廟が湯島聖堂である。
江戸後期には、のちの戊辰戦争時に蝦夷島総裁になった幕臣榎本武揚や、幕末に活躍した会津藩士秋月悌次郎、新選組誕生のきっかけとなった浪士組を立ち上げた勤王の志士清河八郎などがここで学んでいる。
ニコライ堂 神田駿河台にある日本ハリストス正教会の東京大主座聖堂。正式名称は、東京復活大聖堂。函館の帝政ロシア領事館付きの司祭だったニコライが、東京に移り築かせたことからニコライ堂の通称で親しまれている。
建築家ジョサイヤ・コンドルが設計に参加し、明治24年(1891)に完成。関東大震災後、一部を修正し、昭和58年(1983)に国の重要文化財に指定された。内部にはイコンや壮麗なシャンデリアが見られる。仙台濠付近 御茶ノ水の地名は、2代将軍秀忠がこの付近を訪れ、湧水を飲んだ際、お茶に合う美味しさだと評した事が由来である。江戸7名水の一つで、江戸城本丸での茶会にも使用されたという。
伊達政宗によって分断された神田山があったのが、駿河台と湯島台である。駿河台の地名は、駿府城に隠居していた家康が亡くなった後、駿河からやって来た旗本・大久保彦左衛門が居を構えたことにちなむ。分断された神田山の間に神田川が流され、現在の御茶ノ水駅や秋葉原駅を通って浅草橋奉公に流路が変更されたことで、神田川は外濠の一部となった。政宗は秀忠に「本郷から攻める」としきりに開削を促し、自ら工事を申し出たという。政宗の手によってつくられた為、このあたりは仙台濠とも呼ばれる。東京都水道歴史館 江戸・東京の400年にわたる水道の歴史と、安全でおいしい水の提供をいかに行うかという水道の技術や設備にまつわる展示を行っている。
神田上水や玉川上水等の江戸上水から、近代水道の創設、現在の水道に至るまで、規模・水質共に世界有数のレベルに達した東京水道の歴史や技術を紹介している。
水道歴史館HP→ http://www.suidorekishi.jp/
小石川門 小石川橋交差点付近で、神田川は日本橋川と合流する。このあたりが、寛永13年(1636)に備前岡山藩主の池田光政により築かれた小石川門跡である。渡櫓は寛政4年(1792)に焼失してしまった。飯田橋に至る歩道の脇に並ぶ多数の巨石は、小石川橋門の廃材の可能性もある。
日本橋川(旧平川)は外濠完成当時には三崎町あたりで堀留めされたが、明治36年(1903)に神田川と再び合流している。枡形があったのは中央線と総武線のガード下になり、石垣になっているところが外濠の土塁跡である。
小石川橋を渡り、現在の東京ドームや後楽園ホール、小石川後楽園のある一帯は、すべて水戸徳川家の上屋敷跡である。写真無し 牛込門跡 JR飯田橋駅西口を出て左手すぐの場所に牛込門跡がある。神楽坂側から牛込橋を渡ったところに枡形があり、高麗門の両側の石垣が残る。高麗門から枡形内に入り、右折して櫓門をくぐって城内に入る構造である。
牛込門は、櫓台の南と北の石垣がほぼ原形をとどめる貴重な場所で、もっとも外濠の面影が残るエリアと言える。寛永13年に阿波徳島藩主の蜂須賀忠英が築いた可能性が高く、南側の石垣下には築造を示す「入阿波守内」と刻まれた石が展示されている。ちなみに筋違橋門、小石川門、牛込門、市ヶ谷門はすべて寛永13年の完成である。
牛込門は神楽坂から土橋で繋がれ、二の門の高麗門の前で小さな木橋となっていた。